「《氷の刃》の迂闊な失敗」
〜2010年有利お誕生日企画〜





 ふ…っと意識が浮上していくと共に、穏やかな陽光を感じる。

 余程性能の高いエアコンを使っているのか、自然な高原のそよ風に近いものを感じるスウィートルームの一室で、有利は爽やかな朝を迎えていた。
 
 ここ数日は灼熱地獄のような陽光が日本全国を照りつけ、最高気温39度だ40度だと、体温であっても《高熱》と称されるような気温が続いていたのだから、きっとこれまで通りの渋谷家であれば、エアコン嫌いな三人が朝食の席で《眠れなかった》とぼやき、長男だけが《エアコンで喉が痛い》と発言して、美子から色んな意味でのお叱りを受けていたことだろうが、この部屋は湿気も適度に保たれているのか、喉も肌も滑らかに潤っている。

『気持ちいい…けど、なんか夏らしくないなぁ…』

 さらりとした肌は例年のようにシーツへと張り付くこともなく、仄かに石鹸の香りと有利の体臭が混じった匂いを立ち上らせている。
 ごろりと寝返りを打てば、ベッドサイドに腰掛けている青年にドキン…っと胸を拍動させてしまった。

 もう一ヶ月近くも傍にいるのだから《いい加減馴れろ》と自分に言い聞かせるも、リクライニングソファに横たわる青年は、そうそう未熟な少年を馴れさせてはくれなかった。
 《美人は3日で飽きる》なんて、有利のように平凡な誰かが悔し紛れに言い出した言葉に違いない。だって、至高の美は数千年を経ても美しいとされるのだから。
 
 コンラート・ウェラー…1学期の期末試験あけから有利のボディガードを務めている青年は、業界では《氷の刃》と称される怜悧かつ麗しい美貌の持ち主だ。
 白磁の肌は透明感を持ちつつも引き締まった印象があり、有利が目覚める気配を察知したのか、ゆっくりと開かれていく長い睫の影から、澄んだ琥珀色の瞳が現れる様に、有利は《朝日が昇る時みたいだ》等と感慨を浮かべる。

『綺麗…』

 朝日が水平線に顔を覗かせた瞬間にちかりと瞬き、次いで色合いや姿を変えていくのと同様、コンラートの眼差しもまた刻々と変化していく。年相応の青年らしい《素》の色合いを見せたのは瞼が開かれた最初の瞬間だけで、秒針がカチリと動いた後には、有利の姿と自分の状況を認めたのか《仕事人》の色彩となる。
 寸分の隙もない佇まいからして、寝込みを襲われていたとしても瞬時に反応していたのだろうけれど。

『どっちも好きなんだけどね。うん…この人の顔って、状況によって凄く変わるけど、どれも好きだなぁ…』

 うっとりと見惚れながら、有利はぽんっと頬を染めた。つい数日前…終業式の日に初めて見た表情を思い出したのだ。
 コンラートの懐に《入ろう》と、押して押してしまくったのは有利だが、まさか自分のあそこに《入られて》…というか、《入れられて》しまうとは予想だにしいなかった。
 正直、権現源三の莫大な遺産を受け継いだ時よりも吃驚した。

『でも、嫌じゃなかったんだよな…』

 流石に瞬間瞬間では戸惑ったし、抵抗もしたけれど、コンラートも有利を《欲しがっている》のだと知られることは、羞恥を上回る悦びもくれた。
 
『でも、翌日からはすっごいフツーに扱われてるんだけど…。無かったことにされてる訳じゃないよなぁ?』

 それを考えると胸の奥がぎゅっと締め付けられるのだが、時折滲ませる優しげな眼差しを感じて、その都度《うん、あれは本当のことだよな?》と自分に言い聞かせたりしている。

「おはよう、コンラッド!」
「おはようございます」

 ほら、淡々と返事を寄越しているようでも、コンラートの声音にはどこか出会った頃とは違う色合いが滲んでいる。
 だから、きっと大丈夫。

『ツンデレの恋人を持っちゃったのは自分の選択の結果なんだからさ、細かいデレの部分をちゃんと拾っていかないとな!』

 この辺り、剛速球を受け止め続けるレシーバーの気分である。



*  *  * 




 コンラートの雇い主は命を狙われているわけではないが、その身柄と…特に、貞操については虎視眈々と狙われている。年頃の少年を思うさま操ろうと思えば、セックスから絡め取っていくのが最も手っ取り早いからだ。
 最悪の場合、薬漬けにしてしまうとか、淫らな写真や映像を記録して、保護者ごと脅迫してしまうという手もある。

 コンラートはそんな脅威から有利を護るべく権現源三に派遣されたのだが、よもや一ヶ月もしないうちに、雇い主の貞操を奪ってしまうとは思わなかった。

『不覚…』

 軽く瞼を押さえると、コンラートは結ばれたあの日の映像を脳の奥にしまい込む。今はそのような懸想に浮かれている場合ではない。

 今日は屋外で野球に勤しむ雇い主を、新しい体制で護らなくてはならないのだ。油断など出来ない。

 有利は春頃から草野球チームを立ち上げていたのだが、権現源三の遺産を引き継いで以降、防衛体制が整うまでは…と、練習に参加するのを止めさせていた。しかし、あんまり有利が寂しそうな顔をしていたものだから、本日7月29日から練習に参加できるよう防御態勢を整えた。

 その判断は決して、彼と深い仲になったせいで絆されたとか言うわけではない。
 決してない。
 単に雇い主の精神衛生を保つ為に判断しただけだ。

 ただ、今後とも冷静な判断が出来るかというと…少し自信がない。
 
 コンラートは父を亡くしてからというもの、自分の理性でコントロールできないような事態に巻き込まれた事がない。氷の壁を張り巡らし、動揺させるような因子の混入を防いできたからだ。迂闊に飛び込めば敵の方が氷の破片を受けてズタズタにされてしまう…そんな人生を歩んできた。

 それがまさか、氷の破片どころか欠片ですらも打ち付けたくないと望む相手に出くわすとは思わなかった。そもそも、その相手は壁を砕くのではなく眩しい陽射しでもって溶かしてしまう人物なのだから、コンラートとしてはどう対処して良いのか分からない。

 こんなに相手との距離をどうして良いのか分からないのは初めてだ。

『《巌の権現》と、《漆黒の龍》でさえ籠絡する魅力を、一体何処まで波及させるのか…将来が空恐ろしくさえあるな』

 威勢の良い声を上げてチームメイトに指示を送る有利は、見ていて気持ちが良い。彼が楽しそうにしていると、コンラートを包む氷など春の薄氷のようにふわりと溶けてしまうようだ。

『可愛い…』

 今までの自分からは考えられないような感想が浮かんで口元がほわりと解れそうになるから、思わず手で口元を覆ってしまった。

 夕刻近くになると、どうやら練習は終了時刻を迎えたらしい。《漆黒の龍》こと、村田健は甲斐甲斐しくメンバーに調整スポーツ飲料や冷やしたおしぼりを渡している。その合間にちょこちょこと体調や練習の仕上がり具合を聞き取り、細かくメモを取っている。その気になれば小国程度なら乗っ取れそうな組織の首領が、草野球チームのマネジメントを買って出ているとは…なんともシュールなことである。

 だが、村田は有利達とそうしている時には何とも良い表情で笑う。
 半分は《気の利く学生さん》を装っているのだろうが、もう半分は本心から楽しいと感じているのだろう。
 彼の《情夫》を自認しているヨザックも、さぞかしとろけそうな眼差しで見つめているに違いない。(伏兵として姿を隠しているので、視認は出来ないが脂下がった表情は大体予測がつく)

 ふと見ていると、身なりを整えたメンバー達が妙にそわそわとし始めた。何人かが村田に囁きかけると、こくりと頷き合って示し合わせている。

『なんだ?』

 村田も了承しているのなら不穏な話ではないはずなのだが…。一体何なのだろう?

 コンラートが不審に思いながら見守る先で、メンバー全員が荷物の中からカラフルな包装を施した箱だの袋だのを取りだした。そして…一斉に口にした言葉は《ハッピーバースデーキャプテン!》だった。うきうきとした大きな声は、コンラートの耳にも直接聞こえてきた。

「……っ!?」

 コンラート以上に有利も吃驚したようだが、次いで…実に嬉しそうに笑み解れる。
 《うわ…今日ってそうだっけ?つか、みんなご丁寧にプレゼントとか…。なんなら、連名とかでも良かったのに!》と大いに焦ったり恐縮したりしつつも、嬉しくて堪らないという顔をしている。

 プレゼント以上に、メンバーの真心が嬉しかったのだろう。

 村田は箱に詰めたプレゼントの他にも用意があったらしく、大きなクーラーボックスを開くとアイス製のバースデーケーキを取りだした。立ち上る冷気と美味しそうな形状に、メンバー全員から歓声が湧く。

 蝋燭を有利が一気に吹き消すと、村田が精密なナイフ裁きで等分に切り分けていく。ちゃんと《ユーリ君、16歳おめでとう》と書かれたメッセージプレートは有利の皿に載せられた。

「おーい!コンラッドも食べなよ〜っ!!」

 ぴょうんとフライパンの上で炒めた豆みたいに有利が弾むが、コンラートは苦笑して断った。
 防衛ラインの問題も勿論あったのだが…ちょっと居たたまれない気分だったのだ。

『そうか…今日だったか』

 普段のコンラートなら考えられないようなミスだ。
 これまでは雇い主の精神衛生を維持する為に、誕生日や各種記念日などは確実にチェックしていたのに、よりにもよって有利の誕生日を忘れていたなんて…。おそらく、有利のことを意識し始めたからこそ、プライベートな情報を意識しないようにしていたせいかも知れない。

 それにしたって…あまりと言えばあまりの、自分の不手際が許せない。

『どうする?』

 今日の内に有利を感動させるようなプレゼントを用意できるだろうか?直に買いに行くには範囲が限られてしまうし、通販などを利用するとなれば間に合うかどうか…。

 コンラートは生まれて初めて、焦りに焦っていた。



*  *  * 




 ホテルでは一流シェフならぬ、ご家庭シェフの美子が腕によりをかけてお誕生日ディナーを作り上げてた。材料や調理場はホテルで提供されているから、メニューは例年に比べて非常に豪奢なものになったが、その上で家庭らしい雰囲気も満ちあふれていた。

 大金持ちになったという意識が希薄なこの家族のこと、プレゼントはいずれも等身大で、《有利が本当に喜ぶもの》を以前から考えていたものだと分かる。

 笑いの絶えない宴が食後の珈琲・お茶と共に収束すると、有利は軽い足取りで、いつも通りコンラートと連れだって自室に向かった。

 そして…後ろ手に扉を閉めると、くるりと振り返ってコンラートに語り掛けた。

「コンラッド、ありがとうね」
「…は?」
「コンラッドからのプレゼントが、一番嬉しかったよ!」
「何のことでしょう?」

 本気で分からずに、顔には出さないが狼狽えてしまう。
 しかし、有利はにこにこと幸せそうに微笑むと、感謝と愛情に満ちた眼差しを送ってくれるのだった。

「あの河川敷で俺のこと護るの、結構面倒なんだろ?権現じいちゃんのお金を使えば護りやすい屋内練習場を借りられるのは知ってたけど、俺…あそこが一番馴染みがあったし、屋内でやるのってあんまり好きじゃないし、メンバーが集まって屋外で出来る所ってあそこしかなかったんだ。あの野球場をそのまま使わせてくれて…本当にありがとう!」
「俺が…配慮したと?」
「違うの?」

 きょん…と小首を傾げて問うから、《違う》というのも《そう》だと言うのも気が引ける。前者であれば有利の感動を踏みにじるようだし、後者であれば偶然の産物を自分の功績として誇るようで気が引ける。
 特に後者について思いを馳せた時、コンラートは自分がこの少年に対して誠実でありたいと思っているのだと知れた。

「…そこまで考えたわけではありませんが、その方があなたが喜ぶらしいとは思いました」
「じゃあ、やっぱりコンラッドのおかげだ」
「言っておきますが、誕生日に合わせて練習許可を出したのは単なる偶然です。メンバー達がプレゼントを出すまで、俺自身は今日があなたの誕生日であることを失念していました」

 こんなに馬鹿正直に答えたら、有利は傷つくだろうか?
 身体を重ねたことも一時の気まぐれで、誕生日などどうでも良いと思っていたのではないかなんて、疑われたらどうしたよう?
 決して、どうでも良いなんてことはなかったのに。

『そうだ…この子が、生まれた日なんだ』

 有利に出会っていなかったら、コンラートはまだ氷の砦の中で自分を護っていただろう。
 本当は傷つきやすくて後ろ向きな自分を覆い隠す為に、みっともないところを見られないように、クールな自分を護る頑丈な殻に、くるりと自分を包んでいたのだろう…。

 心の奥のやわらかい部分が自分に残されているなど、気付きもせずにいただろうか?
 それはとても静謐で安全だろうけれど…今となってはとても《つまらない》ものであったろうと思う。

『ああ…悔しいな』

 どうしてこんなにギリギリになるまで気付かなかったのだろう?
 ほんの少し調書に目を通したり…いいや、有利自身に聞くだけで分かったのに。

「すみません…誕生日のための贈り物は、用意していないのです」
「何言ってるんだよ。俺、いっぱい貰ってるよ?」

 コンラートは悔しさのあまり不機嫌そうな…怒ったような顔をしているというのに、有利はまるで全てを見抜いているかのようにふんわりと笑う。

「それでも…どうしてもっていうなら、俺からプレゼントをお願いしても良い?」
「今日中に間に合いますか?」
「1分で済むよ。ちょっとしゃがんでくれる?」

 これが《跪く姿勢》であることに有利は気付いているのかいないのか…性的な内容を予測して少しひやりとするが、有利の方に色めいた様子はない。

 有利の腕は、甲が陽に灼けているけれど内側は透き通るような白を呈している。それがそっと伸ばされると、指がコンラートの髪に差し込まれてくしゅりとその感触を愉しんだ。

「えへへ…あんたの髪、一度こうしてみたかったんだよね!」
「はあ…」

 有利はにこにこと幸せそうな顔をして髪の毛を梳いていく。それは確かに密着度が高くて、今まで誰にも赦したことのない行為であったけれど、これが…こんなにも心地よいとは思わなかった。コンラートの眦が犬と言うよりは猫のように細められていることに、有利は気付いているだろうか?

 しゃく…
 しゃくしゃく

 大型犬でも撫でつけるみたいにしゃくしゃくと指を使う有利は、約束通り1分で行為を止めた。

「はい、おしまい。ふ〜…気持ちよかった!」
「…………」

 コンラートはまるで巧みな焦らし愛撫でも受けたような心地になって、引き留めるように甘く囁きかけるのだった。

「…もっと、しても良いですよ?」
「ほんと?」

 寧ろ、《触れて下さい》と哀願しなければならないところだが、有利は頓着なく受け止めてくれた。まこと、この魅力的な人物が素朴な気質で良かった…。小悪魔的に男を転がす性格であったなら、コンラートはどんな恥ずかしいプレイでも実行してしまったろう。


 結局…不器用な恋人達は日付が変わるその時まで、ある種セックスよりも端から見ていて恥ずかしい行為に耽っていたのだった。