「磨り硝子の窓」-4









 波が穏やかなせいか身体が馴れてきたのか、夕刻になって船上パーティーが開かれる頃には殆ど甲板の揺れは気にならなくなっていた

 どちらかというと、気になるのは身に纏った華やかな衣装の方だ。藍色を基調とした薄い布地を幾重にも重ねたスーツは、上着の丈が長いせいもあって、ドレススーツとでもいうのか随分と優美な印象だ。ただ、コンラートに見せられたときには《俺がコレを着るの~?》と苦情を申し立てたユーリだったが、胸ポケットに小花をつけたり髪を整えられると、意外なほどしっくりと似合っていて、長い裾の捌き方も意識せず行えた。

『結構こういう服も着てきたのかな?』

 鏡を覗き込むと、女の子と言っても信じられてしまうそうなほど中性的な姿に照れが生じるけれど、確かにみっともないということはない。コンラートの見立ては間違ってはいないのだ。

 コンラートの方も襟が高くて上着の裾が長い服を着こんでいるが、こちらはかっちりとした布地で実に格好良い。彼が纏っていた軍服と同系列の服だからだろうか?

「あんたも俺みたいな服着ても似合いそうなのにな」
「まさか!こんなゴツイのが着たらおかしいですよ」
「そんなことないって。あんた、肩幅は広いけど腰は細いもん」

 そう言ってコンラートの腰に両手を添えると、硬い布地の上着越しにも細く引き締まった腰に、くら…っと思考が揺れるのを感じた。

『あ…俺、この感じ…知ってる』

 服の上からも何度も触ったけれど、それ以上にリアルな細さを知っている。
 服の下に、何があるのかも…。

「あんたの腰…大きな疵があって、縫った後が幾つもあったよね?」
「ええ…そうです」

 コンラートが嬉しそうに破顔したのが、顔を上げなくても分かった。ユーリも一緒になって嬉しい気持ちになって、するりと腕を回して腰に抱きつく。大きな木の周径を両腕で調べるような行為だったので、周りから見たら熱々のカップルぶりに見えてしまうことは全く自覚していない。

「さあ…踊りましょうか?」
「踊り?でも…ダンスはまだ思い出せないよ?」
「大丈夫。初めての時だってお上手でしたよ」

 そう言うと、コンラートはユーリの手と腰を取って甲板に歩み出て行く。曲に合わせて誘導されていけば、なるほど身体は自然と動いた。

「あはは…不思議。やっぱ俺って身体の方が脳より賢いみたい」
「運動神経が良いんですよ。ほら…こうしても……」

 ユーリの靴底にコンラートの足背が添えられると、そのまま持ち上げられて、ふわ…っと身体が宙を舞う。螺旋を描いて身体を捻れば、我ながら見事に着地が出来た。

「お上手ですよ!」

 コンラートの言葉通り、藍色の布をはためかせてくるんと舞ったユーリへと惜しみない喝采が送られる。丁度ムーディーな曲に変わったこともあり、次々に船客達はユーリ達の元に手を差し出した。

「どうか次は私と踊って下さいな」
「いやいや、是非とも私めと…!」

 紳士淑女の群れが結構な勢いで寄せてきたのだが、コンラートはユーリを手放す気はないらしく、厚い胸板にちいさな顔を抱き寄せて、幸せそうな微笑んだ。

「申し訳ないけれど、この子は人見知りするのです。心配で、とても手放したりは出来ませんよ」
「おや…過保護すぎるのも考えものですぞ?」
「そうそう、華は他者の賞賛を浴びてこそ美しく輝くものですわ」

 特段にしつこい老紳士と気の強そうな淑女に対して、コンラートは切なげな声で答える。

「いいえ、俺以外にこの華を味合わせたくはないのです。どうかお許し下さい」
「まあ…当てられてしまうわ!」
「いやはや全く…お邪魔虫は、ひとまず退散しますかな」

 強い独占欲に苦笑すると、淑女と老紳士は名残惜しそうに立ち去っていった。

「コンラッドって…いつもこんなだっけ?」
「さあ…どうでしょう?あなたに微かにでも覚えて貰っているのが自分だけだと思ったら…何だか、タガが外れてしまったみたいです」

 うん。そういう気がする。
 ストイックな印象の強いコンラートが、普段からこんな風に、あからさまな独占欲を示しているとは思えないのだ。きっと、この特殊な状況が彼をそうさせているに違いない。

『なんか…甘やかしたくなっちゃうよね』

 体型や経験値から言えば逆の立場なのだろうが、こんな風に考えるのは不遜だろうか?でも、はにかむように微笑むコンラートを見ていると、何とも言えないふくふくとした気持ちが溢れてくるのだ。

 しっとりとした曲調も手伝って、ユーリは少し雰囲気を出してコンラートの胸へと縋り付く。周囲の女性達が愛しい男の胸に取り縋るみたいに、ぴたりと頬を添えて。

「これは、どうやって踊ったらいいの?」
「そうして、曲と俺に合わせていれば良いですよ」
「うん…」

 前にもこうして踊ったのだろうか?そっと寄り添って、奏でられる曲に合わせてゆらゆらと揺れる。
 ああ…船が揺れているのか自分が揺れているのか分からない。

 気が付いたら、ぽっかりと浮かんだ月の上で踊っているのではないか…そんな夢想まで見ながら、ユーリはうっとりと瞼を閉じた。

 

*  *  * 




 コンラートと引っ付いて踊るのは楽しかったが、お洒落な靴はあまり足に合わなかったらしい。新しかったせいもあって少し踵が痛くなってくると、気付いたコンラートが椅子に座らせてくれた。

「食べ物と飲み物を持ってきますから、ここから離れないでね?」
「うん」

 こくっと頷くと良い子にして待っていたのだが、ここぞとばかりに美味しそうな料理の載った小皿を持って、紳士淑女が集まってくる。

「おお…やっと護衛が離れましたな。良かったら、このアントルメは如何?」
「いえいえ、まずはこのフルートグラスを空けて下さい。今年一番のスパークリングワインですぞ」
「あ…あの…。コンラッドが持ってきてくれるから良いです」

 《おあずけ》も出来ないわんこと思われては困るので固辞していたら、残念そうに皿やグラスは引いたものの、ここから立ち去る気はないらしい。
 コンラートが戻ってきても、老紳士と妖艶なドレスを纏った女性がなかなか立ち去らなかった。

「ねぇ…少しは私とも遊んで下さいな。こちらの可愛らしいお連れにも、世間を見せてあげても良いのではなくて?」
「いや、結構」
「ああん…そんなつれないこと仰らないで?一度踊るだけで良いの」
「いや…」

 どうやらユーリ狙いの老紳士と結託しているらしい。女性自身はコンラート狙いなのだろう。豊満な胸を見せつけるようにして反らすと、魅惑的な蒼瞳をコンラートへと向ける。

『すっごいオッパイ…。乳首とか見えちゃいそう』

 青少年には目の毒にしかならないようなボディラインだが、見惚れるよりもチリチリとした違和感が胸を炙るのが不思議だった。心の何処かで、《コンラッドが脂下がってあの胸を眺めたりしたらどうしよう?》と不安がっている自分が居る。

 ぺと…と自分の胸に両手を押し当ててみれば、当然そこには大胸筋による膨らみしかない。せいぜい言えばちいさな豆粒ほどの尖りがついてはいるが、とてもあんなオッパイと対決できるとは思えない。

『でも…前に、コンラッドはこの胸を《可愛い》って言って、舌で転がしたりしなかったっけ?』

 確か、このちいさな尖りはコンラートの紅い舌に嬲られると、途端に色づいてなまめかしく痼っていたような気がする。それを指で摘まれたり、歯で甘噛みされれば…言いしれない悦楽がこの身をはしったようなはしらなかったような…。

 ぷつんぷつんと三つばかり釦を外して胸元を覗き込めば、浮かぶ鎖骨に紳士達の喉が鳴る。

「ほぉ…なんと透明感の高い肌でしょう」
「舞踏で暑くなってしまわれたのかな?上着を脱いで、もっと胸元を開けると夜風が心地よいですぞ?」
「え…え?いや、ちょっと確認したかっただけだから、別に良いです」

 気を利かせて(?)襟口を広げるのを手伝おうとする手に驚くと、ユーリは小亀のように首を竦めてきゅっと襟を合わせようとする。
 その様がえらくツボに填ったのか、人々は一様に脂下がった眼差しで相好を崩した。

「ほぅ…なんと愛らしい」

 コンラートは表情こそ変えなかったものの、それでもあからさまにそうと分かるほど不機嫌になって女性を追い払うと、靴音を響かせてユーリに歩み寄ってきた。

「主は少々お疲れのようです。そろそろおねむの時間ですしね」
「おやおや…そんなこともないでしょう?まだ宵の口ですぞ」
「いいえ…この辺でお暇しましょう。良いですね?」
「はひ…」

 確認を取るように見えて、それは命令に近いものであった。ユーリは強い語調に押されるようにして、紳士方に詰め寄られたときよりもちいさくなってしまった。



*  *  * 




「全く…あなたという方は、記憶があってもなくても無意識に人を煽ってしまう。罪なお方だ…」

 豪奢な一等船室に戻ってくると、コンラートは深々と溜息をついた。楽しいひとときを過ごしていただけに、何だか申し訳なくなってしまう。

「ご…ゴメンな?」
「もう良いです。あなたはそういう方ですからね」
「そんな言い方すんなよ。なぁ…どうしたら許してくれる?」
「まだ一つも宿題を終えていない方が、また新たな課題をお探しですか?」
「う~…」

 意地悪な物言いに歯がみするが、きっと古いのも新しいのも同根から来ている課題だ。コンラートが自分にとってどんな存在だったかで、変わってくるものだから。

『どうしたら良いんだろう?』
 
 片肘を突いて拗ねてしまっているコンラートを何とかして笑顔にさせたくて、薄ぼんやりとした記憶を辿っていく。彼は滅多にこんな風に拗ねたりはしなかった…と、思うのだが、滅多にないそんな時には、ユーリはどうしていたのだろうか?

『機嫌を良くして貰うには、俺の方から何かをした方が良かった気がする』

 ただ…これをやっていいのかどうかが悩ましいところだ。

「あのさ…コンラッド。嫌だったらすぐ言ってね?」
「…ユーリ」

 コンラートの傍にススス…っと寄ると、彼の精悍な頬に両手を添えて角度を合わせ、薄い唇に自分のそれを宛った。《これで良いんだっけ?》という不安はあるが、コンラートが無抵抗なこともあって、離すことはしなかった。

 触れるだけの、キス。
 最初は冷たい粘膜の感触にドキリとしたが、すぐ同じ温度になっていくそこは、心地よい滑らかさでユーリを誘った。

『重ねるだけじゃなくて、もっと深いところを俺は知ってる…』

 《良い?》という風に眼差しで確かめると、濡れ始めた琥珀色の瞳が《良いよ》と返すのを認めてから、戸惑いがちな舌を咥内に差し入れていく。迷子みたいにおろおろとしていれば、すぐに水先案内人のようにコンラートの舌が絡んできた。

「ん…んく……」
「ん…」

 すぐに息は荒くなるけれど、やっぱり今までにもこういうことはしていたらしい。意識せずに呼吸は鼻でしていて、痺れるような舌の絡み合いにも素直に思考はとろけていく。さらりとした質感の舌は頬肉や歯列も巧みになぞって快感を煽り、次第に立っているのも苦しくなってきた。

「は…ふ……」
「とてもお上手でしたよ。ユーリ」

 ぺろ…っと口角から垂れた唾液を舐め取られると、感じやすくなった身体はそれだけでぴくんと震える。たっぷりとミルクを飲んだ猫みたいにごろごろと喉を鳴らさんばかりのコンラートは、すっかり機嫌を良くしたらしい。

 こういう機嫌の直し方をするような相手を、何と呼ぶか気付かないわけにはいかなかった。

「ねぇ…コンラッド、俺たち…恋人だったんだよね?」
「さあ、どうでしょう?」
「意地悪すんなよ!絶対合ってるって!!だって、こんな激しいベロチュー、普通しないだろう?」
「普通がどんなだったか、覚えてらっしゃるのですか?」

 殊更に丁寧な言葉遣いをするくせに、内容はまだユーリを試すみたいに意地悪だ。だが、そんな言葉尻を掬うような対応など中央突破してやる。頭で考えるよりも、ユーリは身体で思い出す方が良いのだから。

 磨り硝子がぼんやりとしてコンラートの姿が見えないのなら、強引に叩き割って視認してやる。

「俺は覚えてるよ?」
「何を?」
「あんたと触れ合うのが、俺にとっては普通で…一番大事なことだった。それは、絶対間違いないことだ」

 揺らがぬ眼差しを受け止めて、コンラートの瞳が宵闇の中に光る。瞬く星のような銀の光彩が跳ねるのを、ユーリは懐かしさと共に思い返していた。

「そうだよ、俺はあんたのキスを知ってる。あんたと抱き合うことを知ってる…それが、どんだけ俺にとって大事だったかを知っているよ。どんな形で失ったとしても、俺はそれを取り戻したいって思ってる。無くした記憶が戻らないのなら、新しく作らせて…っ!」

 挑むようにして、もう一度キスを仕掛ければ、今度はユーリが主導権を握ってコンラートの咥内を嬲っていく。荒々しいキスは稚拙だけれども、コンラートは眦を紅に染めて笑みを象った。

 どこか…泣き出しそうなくらいの、喜びを滲ませて。

「俺はあんたが欲しい。昔の俺がそういう関係じゃなかったんだとしたら、今すぐ恋人になって?コンラッド…」
「夢の…ようですね……」

 うっとりと微笑むコンラートは泣き笑いの表情を浮かべてユーリの頭髪を撫でつける。キスで淡く色づいた唇は何とも艶めかしくて堪らない気持ちにさせた。

「愛していますよ、ユーリ…」
「ほんと!?」
「ええ…そうです。宿題の答えは丸ですよ。あなたは俺の恋人だった…。だけど、こんな風にあなたから積極的に求めてはくれなかった。何時だってあなたは恥ずかしがって、《愛してる》とか、《好き》と口にするのは…あなたを求めるのは俺だけでした」
「そ…そうなの!?そりゃまた不義理な恋人でスミマセン…」

 それでは、記憶を失ってから時々意地悪をされたのも、その意趣返しであったのだろうか?
 申し訳なさそうにコンラートを見上げれば、優しいバードキスが幾つも瞼や頬に注がれた。
 
「俺の我が儘を聞いてくれて、ありがとうございます…。俺は、幸せ者です」
「あんたがそんなに幸せそうにしてくれるんなら、何時だって好きっていうよ?好き好き大好き、コンラッド!」
「愛してるは?」
「あーいーはー……。何でだろ?ちょっと恥ずかしい」

 照れ照れと唇を内側から噛んでいたら、コンラートがふわりと微笑みながら催促するもので、結局ちいさな声で言わされてしまった。

 真っ赤に染まった頬と耳朶を熱いと感じながら、《愛してる》…と囁けば、そこからはコンラートの主導で熱い夜が始まった。 

  
 

*  *  * 




 ザザ…
 ザザザ……

 心地よい波音と船の揺れを感じながら、ユーリは少し肌寒くて身近な熱源に擦り寄っていく。さらりとした肌は仄かに温かくて良い匂いがするものだから、もっと味わいたくてちゅうっと吸い付いていく。
 うん、味も美味しい。

「朝から大胆ですね…。またあなたが欲しくなってしまうよ?」
「ん…?」

 とろりとした思考のまま甘い声を耳にすると、ずくんと下肢の中心が反応を示した。

「コンラッド…あれ……?ここ、どこだっけ?」

 どうも記憶が混乱している。朝だから当たり前なのかも知れないが、それにしたっておかしな感じだ。確か、ユーリは友邦国の王…そうだ、トスカ王と親睦を深める為にトレタカーレ国の王宮に居たのではなかったろうか?それがどうして、一気に朝になっているのだろう?

「…もしかして、覚えておられないのですか?」
「んぎゃ…っ!」

 下肢の付け根をまさぐられれば、なんだかそこはとんでもないことになっている。色々エロエロと致してしまった後らしい。

「昨夜はあんなに大胆に求めて下さったのに…俺とのことは遊びだったんですか?」
「コンラッド、なんかキャラ変わってるよ!?」

 意地悪な指に追い立てられながらも、次第に記憶が混ざり合っていく。そうだ…まさに、混ざり合い、解け合う感じ。

『そうだ…俺、トイレに行こうとして何人かの衛兵さんと一緒に歩いていったら、向こうから慇懃無礼な感じのおじさんが来て、俺の頭に《贈り物》だっつって銀の輪っかを被せて…』

 ふ…っと、意識を失った。その後、目覚めた時に衛兵の一人を《育て親》として刷り込まれたのだ。そして、コンラートに救われて、彼を求めて今に至る…と。

『うわぁ…』

 思い出したら羞恥心が我が身を灼いた。記憶が無いことが申し訳なくて、コンラートの気持ちが欲しくて欲しくて…夜の間も必死になって彼が喜びそうなことをやってしまったのだが、その殆どが記憶を失う前には絶対やらないような行為だったのだ。

『だ…騙された…とか言ったらマズイのかな?』

 コンラートは一言も《前はこうしていました》なんて言わなくて、《今、あなたが俺に対してしたいことをしてみて?》と誘ったに過ぎない。その様があまりにも魅惑的だったから…ユーリは煽られるままに愛撫をしたりされたりしてしまった。

「お…思い出した」
「全部?」
「どーだろ…まだ分かんないけど、これだけは確かだよ」

 悪戯を続けながらも、どこかユーリの反応を伺うように細められた目元に、齧り付くみたいにキスをしてやる。押しが強いのに変なところで自信がない恋人には、折角の機会だから言って聞かせなくてはならないようだ。

「記憶があってもなくても、俺って奴はあんたが一番に好きって事だよ…っ!」

 真っ赤になった二人が朝ご飯を摂ることは不可能だった。
 だって、互いを確かめ合う行為は昼どころか、夜まで食い込んだのだから…。



おしまい




あとがき

 趣旨が変わってるよーっ!!(←シャウト)

 …とは、3の終わりに気付いてはいたのですが楽しいので突っ切ってしまいました。

 「引き裂かれた恋人が互いを求めて苦悶する」というお話は人が書いて下さる分には楽しいのですが、その苦しいトコを書くのがしん
どい。特に、ユーリか次男のどちらかが記憶を失ってて、相手に対して酷いことをするという展開に耐えられないので、洗脳も相当ゆる
ゆるでしたね。

 結局、洗脳モノと言うよりは、記憶喪失モノみたいな展開でしたが、それなりに愉しんで頂ければ幸いです。