そらまめ バサ……バサ…っ 馬にくくりつけていた革布がめくれ上がったことで、流離いの騎士であるウェラー卿コンラートはこの日、とても強い風が吹いているのだと気付きました。普段の彼でしたら、そんな些細なことも必ず意識のどこかには置いているのですが、今はそういったことを感知する機能が酷く鈍っているようです。 《心のどこかが故障しているのだろうな》とは分かっていますが、自分ではどうにも出来ません。 色々なことを感じられなくなったことで、得をしている部分あります。身体中に刻みつけられた傷や、自分が誰を喪ったのか、ぼうっとしている間はあまり気にしなくて済むのです。その代わり、何かを綺麗だとか楽しいだとか感じる心も失われてしまったようです。 決して目が見えなくなったわけではないので、眼前に広がる光景はちゃんと見えています。艶々と鮮やかに陽光を弾く新緑も、瑞々しく枝を伸ばした木々の梢も、澄んだ水を湛えた湖が、きらきらと銀の鱗みたいな光を揺らしているのも分かります。 でも、それがどんな意味を持つかというのが、少し前とは違ってしまっているのです。 ウェラー卿コンラートは第26代魔王ツェツィーリエ様の2番目の王子様です。でも、魔族の国である眞魔国に、魔族と人間の血を受けて生まれてしまったことが彼の人生を大いにややこしくしていました。本人の気持ちとはうらはらに、尊貴な血脈と人間の血筋は身分の高い人たちに色んな事を考えさせます。 コンラートとしては一生懸命に現実を受け止め、精一杯戦ってきたつもりでした。実際、先だって行われたシマロンとの戦争では必死のぱっちで絶望的な局面を切り抜け、眞魔国を奇跡的とも言える勝利に導きました。 けれど、その戦いの中で大切な親友であるウィンコット卿スザナ・ジュリアが亡くなったり、多くの混血兵がわざと逆境に置かれた理由が、国家を預かる純血貴族の独断専行によるものだったのだと知ると、コンラートは悩みました。一体何の為に戦っていたのか、なんだか分からなくなってしまったのです。 《何の為に》…今まで寸暇を惜しんで戦い、学び、励んできただけに、その動機を失ってしまったことはコンラートにとって大きな打撃となりました。心がすっかり燃え尽きてしまったみたいに、なにをする気も起こらなくなってしまったのです。 傷が癒えて暫くの間は、それでも残された混血の立場を護る為に軍務を続けようとしました。けれど、やはり日に日に辛くなってきたのです。 能力的にも以前より劣ってしまったという自覚もありましたから、兄であるフォンヴォルテール卿グウェンダルに叱責を受けた時に、《ああ、もういいや》と思いました。すぐに辞表を出そうとしたコンラートに、グウェンダルは益々怒っていましたが、半ば無理矢理ねじ込むようにして辞表を握らせましたから、もう後のことなど知りません。頑張っても頑張っても報われないことに、もういい加減疲れてしまったのです。 ですが、何もかも投げ出したからと言って自分から死ぬのも嫌でした。戦争中に部下達は、《あなたさえ生きていれば》と、我が身を擲って庇ってくれましたから、言ってみれば死者への義理として命を保ち続けることを選択したのです。そしてコンラートは放浪の旅に出ました。この世とは違う世界に旅だった時、先に逝ってしまった仲間達に顔向けが出来るように死にたかったので、《良い死に方》を探しているようなものでしょうか。 「ふぅ…」 溜息をついたコンラートは、草いきれの中に腰を降ろしました。柔らかな夏草は特有の匂いを放ちながらさふさふと揺れています。それを何の気為しに弄っていると、ふと視界の中に奇妙なものが映りました。 コロ…コロコロ。 「?」 それは、不規則な軌道を描いて転がる緑色の粒でした。反射的な動作で摘み上げてみると、親指の先程の大きさをした、一粒のそらまめであることが分かりました。厚ぼったい殻から出たそらまめはすぐに乾いて突っ張り出すのに、指の間で挟んだ粒はまだ瑞々しく、淡い翡翠色をしています。それでは、この近くに自生する莢から放たれたばかりなのでしょうか? コンラートは飢え死にする予定はないので(個人的には構いませんが、大の食い道楽であった親友から死後の世界でボコられそうな予感がしたのです)、食材の確保は常に念頭に置いています。多少普段よりはのっそりとした動きにはなりましたけれど、立ち上がってそらまめの転げてきた方向を探しました。 見れば、随分と生い茂った蔓草が大木から暖簾のようにぶらさがっていて、その向こうに隠されるようにしてそらまめが群生していました。 コンラートは機械的な動作でブチブチと空豆の莢を蔓からもいでいきます。食材が豊富にあるのは喜ばしい事の筈でしたが、以前のように《大収穫だ!》とはしゃぐ気にはなれません。今の彼にとって、食料が得られたことは唯の事象であって、いちいち感情を挟むような余地はなかったのです。 ところが、コンラートは掴んだ莢のひとつに少し驚きました。ぴくりと眉の端が動いたくらいではありましたが、それでもここ暫くの感情推移をみれば、特段に驚いた方でしょう。 「…ちょっと大きいな」 客観的に見て、そのそらまめの莢は《ちょっと》どころではない大きさをしていました。 他の莢だってコンラートの大きな掌から余るくらい大きかったのですが、その莢だけは2〜3倍の大きさはありました。それに、掌に載せてもずっしりとした重量感を感じます。これは随分と大物です。コンラートは珍しく好奇心を誘われて、ぱかんと莢を割ってみました。そらまめは莢から出すとすぐに皮が硬くなったり色が変わりますから、すぐ水に漬けた方が良いことは知っていましたが、どんな大きさのそらまめが入っているのかとても気になったのです。 「……っ!?」 その結果、コンラートはとても吃驚しました。 莢の中に入っていたそらまめが予想以上に大きかったからでも、意外と小さかったからでもありません。 そもそも、これがそらまめのわけがありません。 「………………男の子?」 ええ、そうでしょうね。間違いなくそうです。 《くすぅ…》という健やかな寝息に、軽く《ぴすー》と鳴る鼻の音。これは紛れもなく子供の寝息でしょうし、ふかふかの白い綿に包まれた身体は、魔族年齢でいえば五十歳〜六十歳、人間で言えば十代半ばくらいに見えました。大粒のそらまめを抱き枕みたいに抱き寄せて、幸せそうな顔をして眠っています。性を感じさせない華奢な体格ですが、ころんと寝返りを打ちますと、小さいながら(←失礼)男性生殖器が確認出来ました。 あり得ないほどに小さいことに加えて、更に吃驚したのは髪の色です。混じりっけ無しの漆黒の髪は、眞魔国ではどんな宝石よりも価値が高い貴色を呈しています。瞳は大きそうですが、対照的に鼻や唇はちんまりしていて、形良く卵形の顔の中に収まっています。ちいさいですが、見れば見るほど味わいのある可憐な顔立ちでした。 細い手足はくるんと赤ん坊みたいに折りたたまれていましたが、莢が開けられたせいか《うぅん》と伸びをうって、一緒に入ってた普通のそらまめを踏んづけました。伸びやかな腕や脚は人形のように小さく細いのに、その仕草はどこかしどけなく、爽やかな色香を漂わせていました。 『色香って…』 思わず自分で自分に突っ込みを入れていると、もそもそと男の子が半身を起こしました。 「ん〜?」 眉根を寄せて小首を傾げた男の子は、こしこしと目元を擦ったかと思うと、ゆっくりと眩しそうに瞼を開いていきます。そしてまたまた、コンラートを吃驚させたのでした。 「双…黒……っ!」 こんなに吃驚したのは、まともだった(当社比)頃のコンラートであっても珍しいことです。髪だけでも希少価値が高いというのに、それが2つも揃うなんて事は滅多にない奇跡なのです。 いや、そらまめの莢から魔族が出てくるだけでも随分な奇跡ですけど。 コンラートの動揺を知ってか知らずか(←後者に一票)、《あふぅ》と可愛らしく欠伸をした双黒は、しばらくの間ぽんやりとコンラートを見上げていました。 コンラートは自分が、えらくはらはらしているらしいことに驚きました。掌サイズの子供がはっきりと意識を持った時、どんな反応が返ってくるのか予想が付かなかったのですが、もしもそれが《怯え》という感情であったなら…それは、《嫌だなぁ》と思ったのです。何しろ大きさが違いますし、不思議な出自の子供ですから、大きなコンラートを恐れてもおかしくはないでしょう? 我ながら滑稽なくらいの動悸を示して立ち竦んでいると、双黒はやっとコンラートを認識したようです。白い綿の上にちょこんと正座をして、両手はお膝の上に乗せて、きょとりと小首を傾げています。 「ん〜?コンラッド、あんたどうしてそんなに大きくなってんの?」 「…は?」 語尾が少し違いますが、双黒はまるでコンラートのことを昔から知っているみたいに問いかけてきます。 「俺は…ウェラー卿コンラートというんだが…」 「知ってるよ〜。ナニ畏まってんの?」 けらけらと笑う表情には屈託がなくて、初夏のお日様みたいに暖かくて、からりとした印象です。ですが、眠りから醒めて意識がはっきりしてきたのか、双黒はやっと自分の方がおかしいらしいということに気づき始めました。 「…っつか、あれ?俺…なんでマッパ?いや、それ以前にめっさちっちゃい?えーっ?ナニこれ。またアニシナさんの実験に巻き込まれた?」 「アニシナだって…?君、フォンカーベルニコフ卿の友人なのかい?」 それにしては奇妙です。十貴族に席を連ねるカーベルニコフ家の令嬢が、こんなにも小さな双黒と知り合いだなんて聞いたことがありません。意図を持って隠していたとしても、こんなにも珍しい存在を完璧に隠すことなど可能でしょうか? それに、身なりは小さくとも双黒なのですから、強い魔力を持っている可能性もあります。苦しい戦況下で衛生兵としての勤めを果たしたスザナ・ジュリアは、アニシナの親友でもありましたから、何らかの力にしようと模索していたはずです。 「友人っつーのも烏滸がましいけど。まあ、お世話にはなってるよ。アニシナさんの魔導装置には酷い目にもあったけど、助けられたこともあったしね」 「世話になっているって?君は今、莢から生まれたばかりに見えるけど?」 「生まれたばっかでこんなにぺらぺら喋れるかよっ!」 腕を突き上げて憤る双黒の言い分は尤もです。不本意そうに尖らせた唇はぷくんと突き出して可愛いですが、ふと何かに気付いたように引っ込められました。 「…ん?あんた、よく見たら凄く若くない?それに、右眉に傷がないや。うーん…でも、琥珀色の目に銀色の光がキンキラしてんのは変わらないもんな。あんたはあんただよな〜。やっぱ、知らないうちにあんたごと何かに巻き込まれたのかな?」 「幾らアニシナでも、この時期に大規模な魔導実験をするなんて、不謹慎な真似はしないと思うけどね」 「この時期?」 コンラートの言葉を聞いた双黒は、少し表情を曇らせました。その様子は不快げというよりも、どこか不安そうに見えました。それも、彼自身の不安というよりは、コンラートのことを思いやっているよな眼差しです。 『妙なことだ…』 小さい形をした双黒は、本来の大きさであったとしても随分とコンラートよりは年下の筈です。それなのに、漆黒のつぶらな瞳はコンラートを包み込むようにやさしく、慕わしそうに見えました。 「あのさ…ひょっとして今って、大きな戦争の頃?」 「?」 《今》という表現が引っかかります。それではまるで、時代を超えてきた者のようではありませんか。そんな御技を使える者の存在など、コンラートは一人しか知りません。 「大シマロン…ううん、シマロンと戦ってるの?」 シマロンに対して尊称とも言える《大》なんて形容詞をつけられたことに、コンラートは表情を変えました。どこかふわふわとしたお伽噺めいた心理は吹き飛ばされ、後に残されたのはザラリとした質感の現実でした。 「君は、十貴族の友人であると同時に、人間の国とも親しいのかい?」 自分でもあからさまに冷然とした声になり、そのまま掌の中の奇妙な存在を握りつぶしたいような、破壊衝動が沸き上がります。ですが無意識の内に掴んでいた指先に男の子の素肌が触れると、すべらかな肌から伝わる暖かさに、ぎくりと心が震えます。潰した双黒から鮮血が溢れ出すのを想像して、急に怖くなりました。つい先程まで憎しみに駆られて、まさにそうしようと思っていたというのに。 双黒の方はコンラートが浮かべた一瞬の殺気には気づかず、掛けられた言葉に何と答えたものか頭を捻っています。 「まあ、半分は人間だから親しいっちゃ親しいけどさ、大シマロンは別かな〜。まあ、住んでる人たちはどうかしんないけど、ベラールの奴はクソむかつく野郎だし」 また唇を尖らせて眉根を寄せた顔は真剣みを帯びていて、彼が再び口にした《大》という言葉に、尊崇の意味など欠片もないことが聞き取れました。 「あんたを…奪った奴らだし」 苦々しげに呟かれた言葉に、コンラートは目を見開きました。ほんの一瞬ではありましたが、双黒はとても強い殺気を放っておりましたし、言われた内容も気になります。ですが、漆黒の頭髪はぶるぶると振るわれると、強く瞼が閉じられ、再び開かれた時には憎しみの色を払拭させていました。 「ダメダメっ!あ〜、まだやっぱダメだな。ニクしみとかに心を持って行かれちゃあ、冷静な判断とか出来ないって分かってるのにさ」 反省したようにぺしぺしと両手で頬を叩くと、男の子は再び問いかけてきた。 「そーだ。今が眞魔国歴何年かってことを聞いた方が早かったね」 「今年は…」 コンラートが年号を教えてやると、双黒は納得いったように頷きました。 「あー、こりゃあアニシナさんじゃなくて、眞王の仕業だな」 眞魔国に於いては神にも等しい存在を呼び捨てにするという暴挙に、コンラートは度肝を抜かれてしまいました。眞王に対しては、生い立ちのせいで忸怩たる感情も持っている自分ですけれど、やはりその名をおざなりにすれば、それ相応の報復があると信じているのです。思わず、この子が雷撃に打たれやしないかと思って、もう一方の手で覆ってしまいました。 「なに?」 「いや…」 自分は一体何をしているのでしょう?雷撃からこの子を庇ってどうしようというのでしょう?訳が分からないまま微かに頬を染めて、憮然としてしまいます。コンラートの動揺など知らず、双黒はマイペースに話を進めます。 「多分、俺はここでなんかをしなくちゃいけないんだと思う。その為に、眞王は俺を送り込んだんだろうな。ただ…あいつってば相変わらず、ナニをして欲しいか言いもせずに放り出すからさ〜参ったな」 ぼりぼりと頭を掻いていた双黒は、莢の中から出ると股間を隠しながらコンラートを見上げました。 「とりあえず、あんたに見つけて貰ったからにはあんた絡みのことだと思うからさ、しばらく俺の面倒みてくんない?まずは手始めに、身体を隠すものを何か貸してよ」 「あ…あ。それは構わないが」 どうもおかしな事になってきました。済し崩しに双黒の《面倒をみる》ことになったコンラートは、もっと質問するために呼びかけようとして、まだ名前も聞いていないことに気付きました。 「君、名前は?」 「…っ!」 問いかけたのはコンラートですのに、双黒の方が吃驚したみたいに目をまん丸にしています。その表情はまるっきり子供みたいでしたが、じわりと滲んだ感情は、裏腹な複雑さを秘めていました。 ス…と細い人差し指を唇に沿わせた仕草など、不思議なほど艶めいています。 「ナイショ」 「…何故?」 「俺の役目があんたに絡むことなら、俺は迂闊にあんたとの関係を口には出来ないよ」 「名前まで?」 「名前も、あんたに関係があるんだ。とっても…とっても、ね?」 くすりと悪戯めかせて微笑む男の子は、コンラートの心を不思議なほど揺さぶります。つい先程まで何の感情も浮かべていなかった心が、男の子の言葉や表情一つでころころと変化していくことに、言いしれない不安を覚えます。ですが、同時に強い好奇心も覚えるのでした。 『この子と俺は、どういう関係なんだろう?』 名前に関わると言うことは、ひょっとしてこの子はコンラートの息子だったりするのでしょうか?双黒は突然変異的に生まれると言いますから、双黒の妻を娶ったというわけではないのでしょうけれど、子供を作りたいくらい好きな人がこれから現れるということでしょうか? 青いハンカチに孔を開けて頭を通させ、腰にベルト代わりの紐を結びつけ、袖や裾をハサミで調整してやると、双黒は妖精のお人形みたいになりました。憮然として《パンツがないとスースーする》とは言っていましたが、取りあえず恥ずかしさは減ったのか、山登りをするようにしてコンラートの胸を這い上がると、胸ポケットにすっぽりと収まります。目線を下げればちんまりとした頭部が見え、小動物めいた速い心音が服越しに伝わってきます。 「さあ、レッツらゴー!」 収まりの良い場所で落ち着いたのか、腕を突き上げる双黒に促されて、コンラートは宛どない旅に戻りました。 * * * 「にんにきにきにきにんにきにきにき、にっし〜がご・く・う」 「何の歌?」 「ん〜分かんないけど、やたら懐メロに詳しい村田って奴が歌っててさ、覚えちゃった」 「ふぅん」 かっぽかっぽと緩やかなスピードで進む馬上で、暢気な会話が交わされます。《迂闊にあんたとの関係を口には出来ない》と言っていたとおり、名前以外のことも双黒は語りません。 ただ、彼が本来は普通の人並みの大きさであることや、数十年後の未来から来たと言うことだけは分かりました。彼が言っていることが真実であれば、との前提ではありましたが、不思議とそれを疑う気にはなれません。 今のコンラートを騙したところで益など無さそうでしたし、それに…双黒はそんな嘘をつくようには見えなかったのです。彼自身小さすぎる身体に戸惑うようではありましたが、それでも《なにかきっと意味がある》と信じて日々を過ごす双黒は、健気にも見えました。 『俺とは大違いだ』 コンラートとて、自分の行為に意味があると信じていた時期がありましたが、今ではそうあった頃の気持ちが分かりません。 とはいえ、この子と出会う(生まれる?)頃には変わっているのでしょうか? 「君から見た俺は、どんな男になっているんだい?」 「イイ男」 「そう?」 「うん、腹立つくらい」 ぷくんと唇を尖らせている顔は、どこか悔しそうな…それでいて誇らしそうな、ちょっと複雑な表情でした。 「やたら自己犠牲の癖があるから、俺はいつもハラハラしてたけどさ、それも引っくるめてあんたな訳だし。やっぱ…好きだよ」 苦笑混じりに呟かれた《好き》という言葉に、トクンと鼓動が跳ねます。おかしなことです。これでは、まるで恋を知ったばかりの乙女のようではありませんか。しかもお相手は、こんなに小さな小人さんだというのに。 「君は…俺の子どもなのかい?」 「ん〜当たらずも遠からずかな」 どのくらい当たってなくて、どっち方向に遠いのでしょう?この言い回しだと、取りあえず血は繋がっていなさそうです。けれど、名前をつけるくらい近しい存在ではあるのでしょう。 「あ、コンラッドってばさり気なく未来のこととか聞くなよ。あんたの声で囁かれると、俺…弱いんだから」 「…」 あどけない容姿ですのに、時折、この双黒は悩ましい仕草でコンラートを戸惑わせます。別に媚びるような色合いではないですし、健康的には違いないのですが、《清潔感のある色香》ともいうべきものが、柑橘の香りのようにほわりとコンラートを誘うのです。 この子が本来の大きさであれば、迷わず抱き寄せていただろうなと、思うくらい。 『何を考えているんだ俺は…』 くらりと目眩にも似た感覚を覚えて、コンラートは少し馬の速度を上げました。 「わぁ…良い風!」 はしゃいだ声を上げて、双黒は胸ポケットの中から腕を伸ばします。両腕を広げて風を感じている表情を見やりたいのですが、真上からだとちっちゃなつむじしか見えません。 名前を呼びかければ、きっと顔を上げてくれるのに。《君》なんて呼びかけて、用事がないというのは冴えません。 『名前を知りたいな…』 将来のコンラートはこの子にどんな名前をつけるのでしょう?つむじをツクンと突いて上を向かせ、《なぁに?》というようなあどけない表情を見ていると、自然と口が言葉を綴りました。 「ユーリ」 「…っ!」 まん丸に見開かれた瞳に、コンラートの方が吃驚します。 「ちょ…っ!あ、あんた…、なんで…」 「驚いたな。本当にユーリなんだ。じゃあ、君は生まれた時からそんな印象の子なのかな」 初夏の風のように爽やかで、夏を越えていく強さを持った子。コンラートはごく自然にそう感じたのです。 「いや…マジでビックリ」 目をパチパチしている様子が堪らなく可愛くて、コンラートは知らず笑みを浮かべていました。くすくすと喉を振るわせる笑い声を、自分が上げていることに気付いて驚いたほどです。耳にした声は本当に、驚くほど楽しそうだったのです。 『笑っているのか、俺は』 ああ、確かにそうです。無理をして笑おうとしなくても、心の底から沸き上がるような楽しさが溢れてくるのです。 この子といると、清らかで光り輝く何かが汲めども汲めども湧き出してして、心の罅を埋めて、空っぽだった場所を満たしていくのです。 「あ、笑った!」 にこぉっと微笑むユーリこそ、《笑った!》と手を叩いて笑い出してしまいそうなほど綺麗です。笑っているコンラートの姿に笑っていてくれるのだと思ったら、ますます微笑んでしまうくらいに、それは素敵な表情でした。 「えへへぇ…。やっぱ、仏頂面でクールビューティー気取ってるよりも、ちょっと子どもみたいな顔して笑ってる方がずっとイイよ」 「俺の笑顔は好き?ユーリ」 「…ぅん」 何故だかぽんっと真っ赤に頬を染めるユーリに、コンラートまで釣られて頬を染めます。 「ね…好き?」 「ん…んん…」 「さっきは好きって言ってくれたのに」 「も〜…何か余裕出てきたなあんた!しょぼくれてるよりずっと良いけどさ〜。でも、そんな風に期待に満ちたマナザシ向けられると、照れちゃって言いにくい」 「言って、ユーリ。俺のこと好きだって」 「笑顔の話じゃなかったっけ?」 ポコンと胸板を叩く小さな拳に、笑みは益々深まってしまう。 「笑顔は好きでも、俺は嫌い?」 「その聞き方、大人げないぞ?」 「子どもっぽいのが好きなんだろう?」 「それも笑顔の話でしたけどもねっ!」 首筋まで真っ赤にしてポコポコと連打しつつも、再度促すと、そっぽを向いたままユーリは唇を開きました。ちいさな花弁のような唇と舌とが、ちいさくちいさく《好き…》という言葉を綴ろうとした時、ぽつん、と雨粒が頬を打ちました。 『雨…?』 この時、反射的にコンラートは顔を上げてしまいました。そのことを長い間、彼は悔いることになります。 どうしてかって? だって…一瞬の後に視線を胸元へと戻した時には、もうそこにユーリはいなかったのです。 「え…?」 そこにあったのは、一粒のそらまめだけでした。 「…っ!」 悲痛な音を立てて咽奥が引きつるのを感じます。コンラートはすぐさま馬を急停止させると、血相を変えて周辺を探し回りました。ユーリの小さな身体が投げ出されたのではないかと思ったのです。ですが、幾ら探してもあの愛らしい姿を見ることも、胸が沸き立つような声を聞くことも叶いませんでした。 強烈な喪失感が、コンラートの心を引き裂きます。 「戻ったというのか?未来に…っ!」 こんなにも速く奪われるというのなら、一体何を成し遂げる為にこの世界に来たというのでしょう?何が成し遂げられたから、戻されたというのでしょう? 「そんな…っ!」 コンラートはダークブラウンの頭髪を掻きむしって苦鳴を上げました。 まだコンラートは、なにもユーリのことを知りません。 あの子がどんなことを楽しみ、どんにことに哀しむのか十分には知りません。 あの子と食事をしたり、一緒に星を眺めながらお喋りもしてません。 まだコンラートは…言っていません。 あの子を、好きだと。 大事な子だと思い始めていたことを。 一体どのくらい先になるまで、あの子に会えないのでしょう? 「ユーリ…っ!」 膝を突いた夏草が夜露を含むまで、コンラートはその場所から動くことが出来ませんでした。 * * * バサ……バサ…っ 強い風が辺りの夏草を乱しながら吹き抜けていきます。烈風と呼べるくらいの勢いですが、爽やかに乾いた風は心地よく感じられます。 目を細めていたコンラートは、ゆっくりと瞼を開いていきました。その視界に映し出された映像を愉しむために。 「…ぷはっ!」 ざぷんと水しぶきをあげて、眞王廟の噴水から現れたユーリは、コンラートと視線を合わせると不思議そうな顔をしました。 「あ〜…元の、コンラッドだ」 「お帰りなさい、ユーリ」 全てを分かっているような顔をしてコンラートが笑いますと、ユーリの方は仏頂面をして睨みました。 「…あんた、意地悪ぃ…」 「不本意ですね。眞王陛下の目的が分かるまで、俺には何も教えて下さらなかったのはあなたも同じでしょう?」 「俺はあんだけしか一緒にいなかったのに、ぽろぽろ秘密零してたじゃんっ!」 ユーリにとってはごく最近のことながら、コンラートにとってはとても昔のことなので、会話しながらとても不思議な感じがします。 「それは…御自分のせいでしょう?」 「う…っ!そりゃそーだけどさっ!」 《うがぁっ!》と両手を突き上げて怒りを示すユーリは、やっとあの懐かしい記憶を共有出来るようになってくれたようです。長い長い時間、もう、殆ど意地になって護り続けていた秘密が今、二人のものになったのです。 あの日、伝えられなかった《好き》という言葉は勿論のこと、《愛してる》も伝えた相手に、コンラートはずっと秘密を持っていました。 世の中の全てに興味を無くしていたコンラートに、光を与えてくれたユーリ。束の間の逢瀬だけで心を奪い、忽然と消えたユーリ…。 ジュリアの魂を運ぶという過酷な使命を与えられた時には憎み掛けた眞王でしたが、天啓のように閃いた《ユーリ》という名を次代の魔王に与えた時、コンラートは全てが繋がるのを感じました。 けれどユーリには一言も、かつて出会っていたという事実を告げませんでした。眞王の思惑がどこにあるかというのも確かにありましたが、あのとき何も知らなかったユーリに過去を明かすことで、かつての出会いが消されてしまうのが怖かったのです。 僅かな逢瀬でした。 壊れていた心は癒された分、喪失に呻きました。 ですが、何も感じないということは死んでいるのと同じで、どれほど心から血が流れても、やはり何かを感じていたいと思えたことを、いつか全てを共有したユーリに伝えたかったのです。 感じ取る心を蘇らせたからこそ、不器用な兄の愛情も、弟の反抗的な態度の背後に潜むものも察することが出来たのです。すぐには仲良くなれなくても、いつか通じ合える日が来ると信じることが出来たのです。 でも、そんなの正面切ってユーリには言えないでしょう? だって、男の子ですもの。 「それより、早く俺の腕に飛び込んで頂けませんか?幾ら巫女達とはいえど、あなたの素肌を晒しているのは心臓に悪い。我が師匠や弟が飛び込んでこないとも限りませんしね」 そう、ユーリは現在絶賛素っ裸中なのです。 「腕とか言うな。タオル貸してくれれば良い話じゃん」 「俺の腕はお嫌?」 「あぁ…もうっ!」 わしわしと濡れた頭髪を掻き回しながら、ユーリは観念したように立ち上がると、裸身をコンラートの腕(大判のタオル)の中に隠しました。すっぽりと包み込まれるような姿に忸怩たるものを感じつつも、その頬は淡く染まっております。 「堪らないな…あなたは。早く神聖なる眞王廟から連れ出してしまいたくなる」 「神聖じゃないトコで、ナニする気だよ?」 挑むような上目遣いでユーリが唇を尖らせると、コンラートは凶悪なくらい蠱惑的な眼差しで、うっとりと恋人を見つめた。 「あなたが、お好きなコト」 くすくすと耳朶に甘い囁きを含ませていくコンラートには、二十年前の可愛げとかナントカは形を潜めているようです。 「ちぇっ…。あんた、昔の方が可愛かったよ」 「あなたは何時でも可愛らしい。掌に収まるあなたにも、もっと触れていたかったと狂おしいくらいに思いましたよ」 「…ヘンタイ」 「あれ?ナニを想像されたんですかね?俺はただ、髪を撫でて差し上げたり、ちいさなお身体がすっぽりと掌におさまるのを愉しみたかっただけだったのですが…。ああ、でも《可愛かった》俺の無邪気な接触に、《開発された》あなたが正気でいられたかどうか…」 「コンラッド〜っ!」 むにに…っと両頬を摘まれていても《佳い男》で在り続けるとは、流石《夜の帝王》と称されるウェラー卿コンラートだ。 「あんまり長い間一緒にいたら、あなたを満足させるために少々ヘンタイ的な行為にも及んでしまったかもしれませんね」 「も・う・言・う・なぁ〜っ!」 真っ赤になってギリギリと頬を締め上げるユーリをふわりと抱き上げて、コンラートは悠然と歩を進める。一刻も早く可愛い恋人を、照れではない赤みで染め上げてしまいたいし、啼かせたい。 「では、参りましょうか?」 「…ぅん」 こくりと頷く恋人が、そらまめよりずっと大きくて良かったなと、しみじみ実感するのは数刻の後。 おしまい |