〜are様のリクエスト〜
「サンタな君」
コンラート・ウェラーは危機的状況にあった。
ドイツの本社から指導的役割で日本の支社に派遣されて1年弱。着実に部下や上司の信頼を勝ち得て、業績も積み重ねてきた。《コンラートさんって気さくで、それでいてどこか影を感じるときもあって、素敵よねェええ〜…》と幅広い年代の女子社員達から熱い眼差しも送られている。公私ともに充実した暮らしを続けていたコンラートだったが、この時、《コンラートさんって意外と…》なんて失笑を買いそうな状況に陥っていた。
会社の忘年会に向かうこの時、暖かい駅構内を出てピュウっと寒気に吹き付けられたせいだろうか、コンラートはかなりの勢いでくしゃみをした。勿論、エチケットを弁えたイケてる男は、鼻と口を覆うのも忘れて等いない。そうしていなければ、執行猶予無しでいきなり評価をダダ下げにされるところだったろう。
何故なら…。
『いかん…。何だってこんなに鼻水が飛び出してきたんだ!?』
我ながら吃驚だ。
これが一人きりで自室にいるときであれば、《うっわ、凄いなー!》と素直にウケたくらいだろう。そのくらい凄い勢いで、信じられない量の鼻水が出た。鼻と掌の間にべっしょりとスライム状のそれが充満したくらいだ。
だが、今はコンラートを信奉する女子社員達と、かなり嫉妬しているらしい男子社員数名が背後にいる。たまたま先頭にいたからどんな状況になっているか気付いた者はまだいないようだが、このまま沈黙が続けば回り込んでくるかも知れない。
『ああ…っ!どうしてこんな時に限ってハンカチもティッシュ持ってないんだ…っ!!』
気分は水無しで砂漠に投げ出された旅人だ。
べっしょりとウェットルな鼻と掌を、これから一体どうすれば良いのだろうか?振り返って《ティッシュを貸してくれないか?》と聞いたりしたら、鼻水でかなり気色悪い音が出てしまいそうだ。
コンラート・ウェラー29歳。生まれて初めてと言っても良いメテオ級の大ショックであった。
『どうする俺…っ!?』
客観的に見れば世界情勢に何ら関わることとてない、しょーもない懊悩であったけれど、今のコンラートにとってはこれからの人生を左右するほど重大極まりない状況であった。
「ティッシュいかがですか?」
「…っ!」
横合いから掛けられた声にはっとして顔を向けると、鮮やかな赤と白のコントラストが目にはいる。サンタの衣装を着たティッシュ配りのようだ。
『…………可愛い』
思わず状況も忘れて見入ってしまった。そのくらい可愛らしいサンタさんだったのだ。
少し丈が長すぎるお仕着せのサンタ服を身に纏っているのは、コンラートの肩口くらいの背丈をした男の子だった。くりんと大きな瞳が印象的な子で、今時珍しいくらい健やかな愛らしさを湛えている。
しかも少年はコンラートの様子を目にすると、迷わず手にしていたティッシュを開いて、取りだした数枚のティッシュで半ば強引にコンラートの顔を拭いた。
「ほら、すっごい拭き心地でしょ?うちのはお店とかの宣伝用ティッシュじゃなくて、敏感肌用高級ティッシュの宣伝だから、販売してるのと全く同じ良〜いティッシュなんですよォ〜?」
「ふが…むむ」
豪快とも言える大きな動きで鼻水を拭き取った少年は、くるんと新しいティッシュに包んで丸めると、スポンとポケットに突っ込んでしまった。証拠まで隠滅してくれるつもりなのだ。あまりのありがたさに瞳が潤んでしまった。
この子はクリスマスの都会に舞い降りた神だ。いや、この可愛さは天使か。
しかし、背後から《何事か》と駆け込んで来た女子社員達はそうは思わなかったらしい。
「えー?ちょっと君ィ。宣伝したいの分かるけど、ちょっと強引すぎない?ウェラーさん、吃驚してるじゃないっ!」
「あ…ご、ごめんなさいっ!!」
抗弁することなく、サンタ少年は潔い態度でぴしりと腰を折って詫びた。騒ぎがあるとティッシュ配りのバイト先に迷惑が掛かると思ったのかも知れないが、それにしてもはっきりとした発語の《ごめんなさい》は、きょうびの日本では失われたかに思えるような、爽やかクオリティだった。
「いや、助かったよ。さっきくしゃみをしたら、凄く鼻水が出てしまったんだ」
「え〜?ウェラーさんったら優しい〜」
一斉に声を揃えて鼻声を出す女子社員達は、明らかに《コンラートさんったら、この子を庇おうとしてるのね?》という目をして、うっとりと陶酔した眼差しをこちらに向けてくる反面、サンタ少年に対しては幾らか敵意の籠もった眼差しでギロリと睨み付けている。コンラートに《日本人は結構図々しい》として捉えられてはかなわないとでも思っているのだろうか?
そんな彼女たちを見ていると、急に先程までの葛藤がスゥ…っと引いていくのが分かる。鼻水まみれの情けない顔を見せたくないと思っていたのは、こんな連中に幻滅されないためだったのだろうか?今となっては、それがとても下らないことのように思えてきた。
「とても良いティッシュだった。必ず買うよ。この近くでも売ってるかい?」
「ありがとうございます!そこの薬局で特売してますよ」
「よし、じゃあ今の内に買っておこう。君たち、悪いけど先に行ってくれるかい?」
《え〜っ!?》と不平を鳴らす社員達を先に行かせて、コンラートは薬局に入っていった。
「このティッシュ、5箱ほど頂けますか?」
「おや、イケメンのお兄さんってばデリケート肌?」
普通、箱ティッシュと言えば5箱で一セット売りだが、これは確かに高級品なのか、単体扱いになっている。白衣の上からカーディガンを羽織った老人は、気さくに笑いながらビニール袋に入れていった。
「いえ、どちらかというとバリケード肌なんですが、とても気持ちが良いので一目惚れというか、一撫で惚れしました」
「あー、試供品をユーリちゃんに貰ったの?」
「ユーリというのですか、あのサンタ君」
「そーだよ。良い子だろうォ〜?うちの孫娘のお友達でね。草野球チームの運営やってっから、ストーブリーグのうちに稼ぐんだって張り切ってんだよ」
老人は皺深い眼差しを眇めると、愛おしそうに屋外でティッシュを配るユーリを眺めた。
「ほんっとーに、良い子でねぇ…。道行く人に声を掛けるときも、一生懸命なんだよ。ティッシュを箱買いなんてしなさそうな子どもが鼻水垂らしててもあげちゃうんだけど、止められないよねェ〜」
どうやらコンラートにしてくれたようなことを、他の連中にもやっているらしい。それはユーリの優しさを如実に顕したエピソードではあるのだけど、ほんのちょっとだけガッカリしているのは、《そうか、俺にだけじゃなかったのか》ということなのか。
「あいよ、5箱ねー」
「あ、そうだ。他の子達にも分けてあげたいので、ポケットティッシュのセットも20袋分ばかり頂けますか?」
「はいはい。んじゃ、ドリンク剤おまけしとくね〜」
結構な量になった包みを抱えていくと、またサンタ少年のユーリが満面に笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。
「ありがとうございます!」
「こちらこそ…。みっともない所を助けてくれてありがとう」
「いえいえ。ああいう時って、気まずいですもんね。ちょっと強引だったから、逆に迷惑にならないかなって心配しちゃいました」
「迷惑だなんて…。こちらこそ、俺のためにしてくれたことなのに、連れが怒ったりしてしまってゴメンね?」
「気にしてないですよー」
ニカっと笑う顔は本当に屈託無くて、恨みつらみなんて微塵も感じさせない。役に立てたというその事だけを純粋に喜んでいるようだった。
『ああ…本当に良い子だ』
まろやかな頬は寒さで少し上気して、クリスマスシーズンの派手なネオンサインが映える瞳は、つぶらな漆黒だ。ころんと掌の中で転がして、頬擦りして可愛がりたいような子だ。
「また会えないかな?」
「はい。25日まではここでバイトしてますよ!」
ニコっ!と全開の笑顔を向けられた。
《逸らされたのかな?》とも思ったが、相変わらず屈託のない表情にはなんの計算もない。本気で《25日まではバイトだから、ここで会えますよ》という状況報告をしてくれたらしい。
「…………じゃあ、また薬局に寄らせて貰うよ」
「そうですね。飲み会シーズンだから、大人の人はウコンの入ったドリンク剤とかいりますよね。今日が忘年会っぽいけど、他にクリスマス会とかもやるんですか?あんまり飲み過ぎないで下さいね?」
「うん、セーブするよ。今年のクリスマスは淋しく一人きりで過ごすけど、年末年始はやたらと酒に強い友人達と飲み会をやるからね」
今時珍しいくらいスレてない子なのだろう。《大人ではない自分は、こっそり飲酒なんて考えられない》という顔をして、コンラートの内臓を心配してくれる。じいん…っと、五臓六腑に染み渡りそうな優しさだ。
《君はクリスマスどうするの?》と聞きかけたのだが、横合いから他の子が割って入ってくる。
「渋谷君、もう時間になるよ。ひけちゃおう!」
「あ、うん」
気の強そうな女の子は、有利と同年代くらいか。なかなかスタイルが良くて、薄化粧をした顔も自分を可愛く見せるコツをよく知っている感じだ。ミニスカサンタ服を身につけているが下品な感じはなく、ユーリと同様ティッシュ配りのバイトをしているらしい。
ただ…何故かコンラートを見るアーモンド型の瞳が、やけに鋭いような気がするのだが。
「行こうよ、渋谷君。あんまり時間が遅くなると、巡回の先生にどやされるよ?」
「あー、そっか」
「気を付けてよね。なにかあったら、雇ってるじーちゃんの立場にも関わるんだから」
どうやらあの薬局の老人がこの女の子の祖父らしい。ユーリは彼女のツテでバイトをしているのだろう。それにしても上から目線の子だ。ただ、小気味よい言い回しと態度のせいか嫌みはなく、ユーリも素直に従っている。
「今は不審者の起こす事件に未成年者が巻き込まれることが多いから、バイトとは言っても色々厳しいのよ?」
「ゴメーン。気を付けるよ」
「マジで気を付けてよね。渋谷君ってば変に可愛いから、オッサン達にコナ掛けられたりすんだもん。その度に救いに行くこっちの身にもなって欲しいモンだわ」
《はぁ…》と思わせぶりにつかれる溜息は、ひょっとしてコンラートを含む世の《オッサン》達に向けたものか?
『オッサン…』
大変、新鮮な響きだ。
29歳の白人男性というのは、現役女子中学生だか高校生の目から見ると、オッサンの範疇らしい。
ひょっとしてユーリにもそう思われるているのかと思って涙目になっていたら、ユーリは心配そうにこちらを見つめていた。
「あんたも気を付けてね?カッコイイから、一人で繁華街にいたら変な人に絡まれるかも知れないよ?先に行っちゃった人たちに早く合流してね?」
「あ…あ」
これは喜ぶべきだろうか?
《絡まれそう》と心配されているのは不本意だが、心配してくれること自体はとても嬉しい。少なくともコンラートを《不審者》ではなく、《被害者》にカテゴライズしてくれているのだから。
「…気を付けていくよ。君も、その子のナイトとして頑張ってね?」
「うん!」
コンラートとしては高いヒールで蹴り飛ばして不審者も撃退しそうな女の子よりも、ユーリの方が心配だったのだが、この言い回しはいたくユーリを喜ばせたらしい。やはり男の子らしく、《護る》側にいたいのだろう。
「じゃあ、また会えると良いな」
「うん!」
笑顔で手を振るユーリが、本当にそう思ってくれていれば良い。
ほっこりとした想いを胸に、コンラートは両手に大量のティッシュを抱えた出で立ちで飲み会の店に向かった。
* * *
「あ、こんばんは〜!」
「あー…」
クリスマスイブイブにあたる夜、再び現れたコンラートに対して渋谷有利は嬉しそうに微笑み、本田ヒバリは嫌そうに眉根を寄せた。
『一見爽やかそうには見えるけど、こういう男こそ危ないのよ…っ!』
本田が友人から半ば無理矢理貸されたBL本とやらでは大抵そうだった。
『許せない…!』
昔ながらの少女漫画至上主義者としては、佳い男が可愛い男と結ばれるなんてとんでもない人材浪費だと思っている。ことに、片思い中の相手を不毛なホモに獲られるなんて冗談じゃない。
『その前にあたしが駆ってやるわ…っ!!』
ギラリと輝く瞳には、勝負を掛けた付け睫毛が輝いている。元々が大きな目だからいらないと思っていたのだが、よく見たら自分が好きな男の子の方が長い睫毛をしていた。密度では勝っているが、有利の方が一本一本の毛がはっきりとしていて、伏せたときなどなめらかな頬に掛かる影が妙に色っぽい。
『こんなの放し飼いにしてたら、絶対得体の知れないホモに喰われちゃうわ…っ!』
今までも、本田はかなりの敵を殲滅してきた。有利にやたらと親しげに振る舞う20代〜30代の男達がいると、間に割り込んで言葉の刃で刻んできたのだ。
《コンラート・ウェラー》と名乗った青年は爽やかな微笑みを湛えて、親しげにユーリへと話しかけていた。それだけなら《営業妨害だ》と言い立てることも出来たのだけど、さり気なく籠の中にあったティッシュを道行く人々に輝くような微笑みと共に渡して、その客の殆どを薬局に直行させたのだから、あまり厳しい言い回しも出来ない。営業職としては相当有能な男なのだろう。
『…つか、あそこまでそつのない態度はホストよねっ!』
警戒心を取り去るようなさりげない態度、甘く響く低音は女心を擽ってやまないらしい。本田だって有利を標的にしていなければ、今少し絆されていたかも知れない。
『渋谷は私が先に狙ったんだから!』
気が強くてはっきりと物を言う本田は男友達は多いが、女友達は極端に少ない。学校という狭い土壌ではこれは不利に働くことが多くて、何かと女子からの風当たりが強いのを、男子は意外と庇ってくれない。腹が立つくらいに草食系が多いのだ。
今年の秋にクラスの中心的な女子から喰らった攻撃も、なかなか鋭いものがあった。古典的ながら、《本田はエンコーしてる》という噂をまことしやかに流された上、クラスメイトが揃っている場面で、直接言質を取れないような言い回しで嫌みを言われ、抗弁するとさり気なく無視をされた。
いつもは仲良くしている男子が怖じけ付いて部屋を出て行く中、今まで視界の圏外にあった有利だけがいつも通りに振る舞ってくれた。《本田さん日直だろ?一緒にゴミ捨て行こう》…そう言われただけなら、《この子、空気読めないのかな?》くらいで終わったかも知れないけれど、有利は教室を出てからポンポンと背中を叩いてくれた。
あの時くらい、《励まされた》と思ったことはない。
『………あれ、嬉しかったなァ…』
その時のことを思い出すときだけは、吊り上がった本田の猫目はふにゃんと柔らかくなる。
有利はクラスの中でそれほど目立つ存在ではないのだけど、どういうものか有力な男子に目を掛けられやすい。特に有利の親友で、《影の首領》と呼ばれる村田健の影響力は強く、彼が手を回したせいか急に本田への攻撃は緩んで、平穏なクラス環境が戻ってきた。
『だから、絶対こんな優男に渡しゃしないわっ!!』
むっと頬を膨らませて睨み付けても、コンラートの方は大人の余裕を見せて微笑んでいる。
『くっそぉ〜…っ!こうなったら、渋谷からの告白とか待ってらんないっ!』
明日はもうクリスマスイブだ。
そろそろ勝負を掛けねばならない。
* * *
『義理堅いヒトだなー』
物凄く格好良い青年が鼻水を噴いて困っていたから、配布していた無料のティッシュで拭いてあげただけなのに、何故だかえらく恩義に感じられてしまったらしく、その日も薬局でたくさん買い物をしてくれたというのに、翌日になってもまた色々と買い足して貰った。
しかもバイトまで手伝ってくれるものだから薬局の売り上げは急上昇して、《特別ボーナス出さないとねぇー》なんて、ほくほく顔で店主にいわれたくらいだ。
『でも、それもあと2日か…』
それも《また会いたい》という公約を、日を置かずに護るために来てくれただけなのなら、明日からはもう来ないかもしれない。
『……ちょっと、淋しいかも』
けれどそれも仕方のないことだろう。会社員らしい外国の人と平凡な高校生男子が、これ以上どんな縁で結ばれるとも思えない。他に嗜好とかの一致が無ければ…と思いついて、ふと問いかけてみた。
「ねえ、コンラッド。野球とか好き?」
この人は《コンラート》というのが正式な発音らしいが、有利は舌が短いのかうまく発音できなくて、結局《コンラッド》と呼んでいる。しかも《さんづけはよしてくれよ、恩人なんだから》とにこやかに話しかけられて、うっかり反射的に《コンラッド》と呼んだら凄く嬉しそうな顔をして頷かれたから、そのまま呼び続ける羽目に陥った。
敬称を付けないと急に距離感が近くなるせいか、何度もタメ口になってしまったのだけど、その都度謝ったら《気にしないで》と微笑まれるもので、やはりこれも常態化してしまう。
「大好きだよ。レッド・ソックスのファンなんだけど、日本だと特にご贔屓チームはないんで、わりと雑食的に近場でやってるゲームを見に行ったりするね」
「西武、応援したりしますっ!?」
「うん。同僚と行くことが多いから、わりとそうなるかな?」
ぱぁあ…っ!と顔が輝いているのが自覚される。西武は激しく有利がご贔屓にしているチームだ。野球好きで、日本のチームで特別な贔屓がないなんておあつらえ向きではないか。
《オープン戦見に行きませんか?なんなら、春期キャンプも一緒に…》と言いかけたところで、ぐいっと後ろから襟元を引っ張られた。振り返ると、本田が般若の如き形相で睨み付けている。
そのままぐいぐいと電信柱の影に連れて行かれると、ちいさな声で耳元に囁かれた。
「渋谷君…ウェラーさんを野球に誘う気?」
「う…うん。好きって言ってるし…」
「そういうのあんまり感心できないな」
「え…?」
「だって、ウェラーさんって渋谷君に恩義感じて色々してるわけじゃない?そこにもってきて《野球観たい》なんて言ったら、凄く良い席を取ろうとか気を使うんじゃないかしら?」
「そっかな…」
「最悪の場合、そういうの期待してタカってるとか思うかもね!」
「…っ!」
《ゆすり》《たかり》と言えば不良少年の代名詞的行為だ。
素朴な野球少年にとって、これほど不本意極まりない疑惑はない。
「そ…そうなのかな……」
「絶対そうよ」
「そっか…」
しょんぼりと肩を落としていたら本田が複雑そうな顔をしたけれど、もう一度頷きながら《そうよ!》と強く言うもので、有利はなんだか泣きたいような心地になってしまった。
『コンラッドにこれ以上気を使わせないためには、黙ってなきゃいけないのかな?』
そうしたら、本当に彼との関係はバイトの終了と共に断ち切れてしまいそうだ。
『街で偶然会っても、バイト中じゃなかったらそのまま挨拶だけして通り過ぎちゃうかもしんない』
それは切ない。
なんだか凄く胸がきゅうっとする。
「本田さん、やっぱ俺…」
やっぱりちゃんと、《お礼とかしなくて良いから、俺と友達になって》って頼んでみよう。このまま離ればなれになってしまうなんて嫌だ。
そう思って振り返った有利の視界に、突然ぎらりと不吉に光るナイフが翳された。
* * *
「渋谷君…っ!」
咄嗟に、身体が強張って動けなかった。
ごく普通に歩いてきた見知らぬ男が、急に懐から刃渡りの長いジャックナイフのような物をとりだして、無造作に一閃させようとした。
その対象が大好きな少年だというのに、怖くて動けない。
『嫌…っ!!』
こんなのは嫌だ。
そんな勇気のない自分は嫌だ。
大好きな人を見捨ててしまう本田ヒバリは嫌だ。
『助けてくれたのに…っ!一番辛いときに助けてくれた子なのぃいい……っ!!』
逡巡は一瞬のことだったのだと思う。ギギギ…と軋轢音を立てるくらいぎこちない動きで一歩を踏み出そうとしたとき、ふわっと良い香りが傍らを過ぎ去っていった。
『この、匂い…』
ぽんっと肩を叩かれて、少しだけ後ろに身体を追いやられる。それはコンラート・ウェラー…天敵と認識していた男だった。《大丈夫。任せて》凛々しい声が響くのを聞いた途端、本田はその場にへたり込んでしまった。
「は…っ!!」
鋭い一声をあげてコンラートの身体が直線を描き、見事に凶行に及んだ男の胸板を射抜く。そのままの勢いで後頭部を強打した男から素早く武器を奪って横に蹴り飛ばすと、右腕を後ろ手に捻って地面にねじ伏せた。
「警察を…っ!」
「は…はひっ!!」
震える手で110番しようとするが、それよりも先に巡回の警官が駆けつけてくれた。
「君、怪我はないかね!?」
「俺は平気です」
さらりとかわしてコンラートはきょろきょろしている。その胸に飛びつくようにして、泣きじゃくるサンタ服の有利が抱きついてきた。
『ああ…』
これは、敵わない。
抱きしめ合って、無事であることを喜び合う二人の眼差しは、ただ偶然に出会っただけの二人じゃない。些細なきっかけであったにしても、今や目には見えない強い繋がりが、心と心に橋を架けているのだ。
それは本田が歪んだ目で見ていたような、穢れたものなどではない。
『綺麗だな…』
悔しさは悔しさとしてある筈なのに、そんな風に感じる自分が不思議だった。
折から降り始めたふわふわとした雪に包まれて、顔中涙にして泣きじゃくる有利と、目尻にやはり涙を滲ませて、帽子の吹き飛んだ有利の髪を愛おしそうに撫でるコンラートの姿は、神聖さを感じさせるくらいに綺麗だった。
そう感じる以上、本田がすべき事は一つだろう。
大好きな人を手に入れられなかった悔しさに負けたくない。せめて、大好きな人を好きな自分を誇りたい。
「渋谷君、ゴメン」
「本田さん?」
「……野球、やっぱり誘ったら良いと思う。ウェラーさんと渋谷君、良い友達になれるよ」
「そっかな?」
「うん。バイトも今日はもういいから、一緒に帰りなよ」
「うん!」
無意識の内にコンラートの手を掴んで離さない有利。顔は涙でくしゃくしゃだけど、笑うとやっぱり可愛い。
『幸せにしなきゃ、ブッ殺すから』
ツンと顔を逸らし、コンラートに向かって中指を突き立てて見せたら、くすりと笑ってピースサインなんか返してきた。
やっぱり喰えない男だ。
* * *
「コンラッド…本当に怪我してない?」
「大丈夫だよ」
警察官も気を利かせたのか、事情聴取はその場で簡単にとると開放してくれたので、コンラートはユーリを連れて家路に就く。正確に言うと、ユーリを家に送ってから自分の家に帰るというルートを辿る。
コンラートを待たせないようにと慌てて紺色のダッフルコートだけ羽織ったユーリは、ぴんぴんと髪の毛を跳ねさせて、年頃の少年らしい格好をしていた。サンタ姿も可愛いが、こういうのもまた新鮮で良い。(サンタ服だってまだ2回観ただけなのだが…)
「ユーリこそ怪我はない?ううん…怪我はなくたって、通り魔に襲われたなんて衝撃は後になってじわじわと来るかも知れない。もし良かったら、電話番号かメルアドを教えてくれないかな?思い出して辛くなったとき、いつでも連絡してよ。話くらいなら幾らでも聞くから」
「良いの!?」
ぱぁっと顔を輝かせているユーリの、なんと可愛らしいことだろう?ちょっと下心込みでの申し出だったのに、こんなに素直に喜ばれると罪悪感を覚えそうだ。
『とにかく番号だけ押さえておけば、色々と攻略法があるだろう』
元から何らかのツテを作って連絡を取り合う気ではいたのだが、あの通り魔のおかげで絶好の口実が出来た。《ユーリが悩んでないかと思って》とか、《やっぱり心配だな…今から会わないかい?直接声を交わした方が分かることもあるからね》などなど、実に説得力のある申し出が出来る。
「あ…あのさ、コンラッド…。クリスマスって今年は一人って言ってたよね?」
「うん。そうだよ?」
《ぱぁああああああ…っ!》とコンラートの脳内に紙吹雪が舞い、天使の喇叭が吹き鳴らされる。素敵なレストランでロマンチックに過ごし、そのままホテルに連れ込んで組んずほぐれつ若い身体を味わって、夜明けの珈琲を共に味わう(何ならそのまま甘いキスに持ち込む)的な妄想がクルクルクルっと脳裏を駆けめぐるが、この時、コンラートは相手が純朴な青少年であることを失念していた。
「俺んちでクリスマス会やるんだけど、良かったら来てくれない!?俺、バイト代でちょっと良い肉買うしっ!」
「…うん。とっても嬉しいな」
一拍置いてしまったけれど、それはそれで確かに嬉しい。命の恩人として登場するなら、家族のウケだって良いだろうし。このまま公認のお付き合いに持ち込むことだって可能かも知れない。悪友達との年越しパーティーなどキャンセルして、仕事のツテを強引に駆使し、金に物言わせてしっぽり温泉旅行に誘うという手もある。(←汚れた大人的発想)
「是非、行きたいな!」
「あんまり高くなくて良いから、プレゼントひとつ用意してね?」
「勿論さ。野球グッズが良いかな?西武がご贔屓だったよね?」
「あー、それは俺に当たるとは限らないから駄目かも。オヤジとお袋と、ギャルゲーオタクな兄貴に当たっても大丈夫なものにしてくれる?なんかお袋の趣味でさ、うちじゃ未だにクリスマスソング謳いながらプレゼント回すんだよ」
無邪気に微笑むユーリの顔が眩しい。
コンラートの邪心をさらりとかわすその姿は、まるで地上に舞い降りた天使だ。
色々と疚しい気持ちでたっぷりな俗人コンラートは、色々と身につまされるものがある。
「そうか…じゃあ、クリスマスまでに喜んで頂けるものを探しておくよ」
「やった!」
ニコニコ顔のユーリがこの時、心の中でなんて思っていたかをコンラートは知らない。
『サンタ姿の高校生…なんか、いらないよね?貰ってもコンラッド困るよね?』
思い浮かべてから、《アホだ俺〜っ》と顔を真っ赤にしているユーリの思考が読めたなら、コンラートは渋谷家を目指すことなくホテルに直行したことだろう。
人の身に過ぎないコンラートが、頑固兄貴の障害と天然素材なユーリを攻略してホテルに入ることが出来たのは、それから3年後のクリスマスだった。
おしまい
あとがき
「ちょっと変態で」というリクエスト。いつもなら「ドンと来い」なのですが、今回は意外と変態チックにならなかった?でしょうか?
「一目惚れしたユーリのために頑張るけど報われない」というのは、エッチに持ち込むまでの時間を考えればセーフでしょうか?
何か色々と間違っている気がしますし、有利に絡む女の子は常にツンデレでゴメンなさいという話ですが、楽しんで頂ければ幸いです。
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