「にゃんと素敵な猫暮らし」
なぁ〜…
ごるごるごる…
心地よさそうに喉を鳴らしているのは、春風の中で微睡んでいる漆黒の仔猫だ。べぶべぶと愉しそうに仔猫の毛を舐める茶猫の喉からも、同じような音色が流れる。
執務室の日だまりの中でうっとりと寄り添う二匹が、この国の王と英雄であるなどとは関係者以外誰も気付かないだろう。
そう…漆黒の仔猫は渋谷有利、茶色い成猫はウェラー卿コンラートその人である。こうなった事情については、《アニシナが関わり(以下略)》で説明がつくだろう。世界公認のマッドサイエンティストとはそう言うものである。
さて、猫の姿は猫の姿でなかなか楽しんでいる様子の二匹の暮らしに、その日、変化をもたらす因子が投じられた。神妙な顔をしたフォンヴォルテール卿グウェンダルの胸が不自然に膨らんでいたのである。
「グウェン…とうとう女体化したのですか?」
「とうとうとは何だコンラート」
不機嫌そうに眉根を寄せるグウェンダルだったが、小首を傾げる茶猫と、まだ寝ぼけ眼で《ふな?》と声を漏らす仔猫を前にして、そうそう厳しい顔など維持は出来ない。
「いえ、グウェンの母性愛がとうとう肉体の方を変化させて授乳可能になったか、アニシナの魔手が及んだのかな…と」
「後者の可能性は否定できんが、なるべくなら回避したいものだな」
想像だけでげっそりしているグウェンダルの胸が、もそそ…と動いた。
「おや…」
ごそごそと胸元のタイを押しのけて顔を覗かせたのは、向こうっ気の強そうな灰色の仔猫である。ロシアンブルーのような毛質は滑らかそうで、大事そうに両手で抱えたグウェンダルも堪らず笑顔になる。
グウェンダルは急ぎの用でヴォルテール領に戻っていたのだが、どうやらその途上でまたしても小動物を保護してしまったらしい。
「領土境の大水で母猫が流されたらしくてな、泥だらけで鳴いていたのだ」
それはそれは…ここまで綺麗にするのに難渋したことだろう。見れば、最初の内は怯えていたのだろう仔猫に引っかかれたらしく、手の甲には紅い筋が沢山見られた。
「相変わらず優しいことですね」
ふ…っと苦笑する茶猫に、グウェンダルは複雑そうな表情を浮かべる。相手が弟だとは分かっているのだろうが、それでも猫に笑われるというのは魔族として微妙な気分にさせられるらしい。
「すまないが、コンラート…こいつの面倒を見てはくれないか?」
「はあ…ま、良いですけどね」
甚だ熱心さを欠く口調でコンラートは受け入れた。積極的に嫌がるような因子もない代わりに、喜ぶような理由もなかったのである。絶妙な大きさで丸く編まれた籐籠は、二匹収まると丁度良い大きさであったので、そういう意味では邪魔者とも言えたし。
「すぐに里親を捜すゆえ、我慢してくれ」
「トイレは独り立ちできそうですから、辛うじて許容できますよ。ユーリ以外の排泄物は俺も拒否したいですから」
「……ユーリなら平気なのもどうかと思うんだが…」
「俺の勝手です」
魔族の時よりも自由気儘で開放的なコンラートに、グウェンダルは頭を抱えてしまった。
「ま…ともかく、頼んだぞ?私はここで執務をしているから、何かあったら言え」
「了解しました」
心なしかコンラートの声が不機嫌そうなのは気のせいだろうか?グウェンダルが慎重に籠の中へと仔猫を入れようとすると、驚いたのか、じたばたと後ろ足で藻掻くものだから、脚がけいんとユーリの頭に当たってしまう。
「みぅ〜…」
「は…っ!す、すまんっ!」
ああ…ユーリを起こしてしまったことよりも、コンラートの怒りに満ちた視線が痛い…っ!
「…気をつけて下さいね、グウェン…良い気持ちで寝ておられたのですから」
「ん…ん?」
ぽや…と目を開いた黒い仔猫はぱちぱちと瞬くと、見慣れないロシアンブルーの仔猫を目にして吃驚した。うなぁ…ふなぁ…と伺うように声を掛けると、二匹(いや、一人と一匹)は、鼻面を摺り合わせてうなうなとコミュニケーションを取り始める。
「ほう、なかなか良い感じではないか」
「……そうですね」
ああ…っ!何だかまたコンラートの声のトーンが落ちている…!
『猫の姿の時には、独占欲を隠しきれないのだろうか?』
考えてもみれば、コンラートは幼い頃から我慢をすることがごくごく当たり前になっていた。特に父親を亡くして宮廷に入り、続いて士官学校に入り、軍務に就くようになってからは、いつも誰かの為に我慢を続けていた。
奔放な母の為、我が儘な弟の為、混血の仲間達の為、眞魔国の為…様々な我慢に我慢を重ねた挙げ句、最も大切な友人の死に立ち会えなかったコンラートは、大戦の後に壊れてしまったように無表情になっていた。
何だか急にその事を思い出してしまったグウェンダルは、手を伸ばして青みがかった灰色の毛玉を持ち上げる。
「うにゃあん…っ!」
早くもユーリを気に入っていたらしい仔猫はうなうなと藻掻いて嫌がるが、構わず胸元に収めようとすると、思いがけないことにコンラートの方から止めてきた。
「グウェン、何故連れて行くのですか?」
「いや…その……なんだ。その籠に3匹はちいさいかなと…」
「いいえ、大丈夫ですよ」
ふ…と笑うと、コンラートはグウェンダルを促す。
「ユーリがその子を気に入ったようですから、平気です」
「コンラート…」
無理をしているのではないのかと不安に思って、まだ少し迷いながら仔猫を籠に戻したグウェンダルだったが、どうやらそれは杞憂であったらしい。
「うなー」
「にゃあ!」
楽しそうな声を上げて鳴く仔猫たちを、纏めてべぶべぶと舐めてやりながら、コンラートはごくごく自然な笑顔を浮かべていた。猫のことなので、《にしゃあ…》と口角が上がって目が細められているわけだが。
『無理をしていないか?』
口には出来ずに眺めていると、コンラートは舐めながら仔猫たちを誘導して自分の腹の間に収めると、くるんと丸くなって上手い具合にすっぽり・みっしり籠に填り込む。そして、満足げに息をつくとすうすうと寝息を立て始めた。勿論、仔猫たちも安心しきった顔で丸くなっている。
『そうか…』
ユーリが幸せなら、コンラートは幸せなのか。
今までのように、誰かの幸せのために哀しいほど自分を削ってしまうのではなしに、本当の意味で弟は充足できるのかと、グウェンダルは驚きに満ちた眼差しを向ける。
なんという仔に、出会えたのだろう?
何でも出来るのに、一番大事なものは指の間をすり抜けてしまうような不器用な弟に、こんなにも大事な仔がいてくれるのだと思うと、何故かグウェンダルは泣いてしまいそうだった。
『良かったな、コンラート…』
グウェンダルは暫くの間、丁寧にコンラートの毛皮を撫でつけてやってから執務に戻っていった。
* * *
「うな…」
たっぷりと眠った仔猫は目を覚ますと、自分と同じくらいの大きさの黒い仔猫と、優美な曲線を描く成熟した茶猫に気付いた。
『そーか、閣下に運ばれてきたのにゃ』
軍服の中で半ば眠っていたものだから、少々記憶が曖昧ではあるのだが…仔猫を拾ってくれた立派な閣下は、凄く大きな机について難しそうなお仕事をしている。
『ふむ。やはり閣下は立派なヒトなのにゃ』
大水に母と兄弟が飲み込まれていったときには、もう自分も死んでしまうものとばかり思っていたけれど、気が付けば泥だらけのボロ雑巾のようになって枝に引っかかっていた。我ながら、舐めて綺麗にするのも躊躇われるくらい汚くなっていたというのに、閣下は迷いなく仔猫を掴むと、手が泥だらけになるのも構わずに湯で清め、ふかふかのヒト様用のタオルで拭いてくれた。
これは、いかな仔猫とはいえども恩義に感じずにはおられなかった。
「目が覚めたかい?」
「そうにゃ」
ぺろ…と額を舐められて顔を上げると、成猫のお顔はとても綺麗だった。うっとりと見惚れていると、すう…っと目元を細めた。
「名前はなんていうんだい?」
「名はまだ無い」
「ふぅん…《我が輩は猫である》…か」
「わがはい?」
「そういう一人称の猫が出てくる、文学作品があるんだよ」
「ふむふむ…わがはい。ブンガク作品とは、こーしょーな感じがするにゃ」
満足そうに目を細めてごるごるしていると、傍らに寝ていた黒猫がぴるる…っと耳を揺らしてから目を覚ました。
「うな…コンラッド、おはよー…」
「おや、目覚めたか」
「ん〜…ああ、さっきの仔猫か」
「お前だって仔猫だろうに」
「あはは…確かにっ!」
何がおかしいのか、ころころと笑う仔猫はたいそう可愛らしかった。成猫の方も釣られてごるごると喉を鳴らして楽しそうにしている。
「おれはユーリ、あんたは名前は?」
「わがはいは…名はまだ無いにゃ」
同じ事を聞かれて答えられなかったので、少々しょんぼりしながらそう言うと、ユーリの方は《そういえば》と頷いた。
「そっか、グウェンってば《仔猫たん》とか《小犬たん》とか言って可愛がるけど、なんでか名前を付けないんだよね」
「里親に出すことを前提にしているからでしょうね。情が移るのを防ごうとしているのですよ」
なるほど、あの方はそういうつもりで拾って下さったのか…。ずっと飼っては貰えないのだと分かるとガッカリしてしまうが、優しい方なのだなとは再認識する。きっと、今までにも同じように犬猫を拾っておいでだったのだろう。
「閣下は優しい方にゃ…」
「そうだね。不器用で…どこまでも優しいよ」
微笑むコンラッドの瞳は、とても親しみを込めてグウェンダルに向けられる。コンラッドとユーリはグウェンダルの飼い猫なのだろうか?だとしたらとても羨ましい話だ。
「閣下に飼われていて、しあわせにゃ?」
「ええと…」
《飼われている訳じゃあ…》とか何とか、コンラッドはごにょごにょしていたが、上手く説明する言葉を見つけられなかったのか誤魔化すようにべぶべぶと脇の毛を舐め始めてしまう。そんなコンラッドの補足をするように、ユーリが目を細めて声を上げた。
「幸せだよ〜。だって、グウェンのこと大好きだもん」
「そっちのコンラッドはそうでもないみたいにゃ。だったら、変わってくれたらいいにゃっ!」
ふなーっ!と眉根を寄せて訴えれば、べしんと痛くない程度に長い尻尾で叩かれる。
「…幸せじゃないとは言ってない」
「なら、どうなのにゃ」
「…幸せだよ。極論すればね」
「コンラッドは素直じゃないにゃ」
「大きなお世話だよ」
コンラッドは溜息をついてばしばしと尻尾を振り回すが、相変わらず痛くない程度に叩くもので、ゆらゆらと揺れる尻尾に飛びついてしまう。
「にゃうっ!にゃうっ!!」
「ふ…仔猫って他愛がないなぁ…」
成猫の余裕を見せて嗤っていたコンラッドだったが…遠慮のない仔猫に尻尾を捕らえられ、がぶりと噛まれると流石に《に゛ゃっ!》と鋭い声を上げる。
「コンラート…っ!」
途端に執務席から立ち上がったグウェンダルが飛んできて、気遣わしげにコンラッドの尻尾をつまんだ。
「…大したことはありませんよ」
仔猫は驚いた。おお…何と言うことだろう?コンラッドは人間の言葉も喋れるらしい。
「しかし、お前にしては随分と大きな悲鳴だったではないか」
「不意を突かれただけです。こんなの、平気です」
ぷぃ…っとそっぽを向いているのは、きっと恥ずかしかったからに違いない。仔猫は申し訳なさを感じて、ぺるぺると噛んでしまった尻尾を舐め始めた。傷口に染みるのか、コンラッドは背筋の毛をぶるっと振るが、今度は悲鳴を上げたりはしなかった。やせ我慢しているらしい。
ユーリも心配そうにやってくると、仔猫の横から優しく尻尾を舐めあげた。
「コンラッド、大丈夫?」
「ええ、平気です」
おや…コンラッドの貌が本当に平気そうになってきた。きっと、このユーリのことがとても大好きなのだろう。
『いいにゃあ…』
素敵なご主人様がいる上に大好きな猫までいるなんて、なんて良い暮らしだろう?
羨ましくて、仔猫はコンラッドを撫でるグウェンダルの手に擦り寄っていった。
「やんちゃが過ぎると、お仕置きをするぞ?」
「ゴメンにゃさい…」
謝っても《にゃー》という声にしかならなくてしょんぼりしていると、コンラッドが代わりに伝えてくれた。
「仔猫が、あなたに《ゴメンなさい》と言っています」
「ほう…そうか?」
途端にグウェンダルの相好が崩れて、ほわ…っと幸せそうな微笑みが浮かぶ。
「それに、あなたを《慕っている》のだと言っています。《とても優しい方だ》と…」
「そうか…」
「《大好き》だとも、言っています」
「そうか…ふふ…」
グウェンダルの目尻は益々幸せそうに綻び、頬は淡く朱に染まっていく。
そんな様子を見守りながら、コンラッドはとてもとても優しい眼差しで賞賛の言葉を綴っていく。
『ああ…もしかして……』
仔猫が口にしてもいないその言葉達は、素直ではないコンラッドから、グウェンダルへの言葉なのかも知れない。直接は伝えることのできない想いを、彼は仔猫の名を借りて伝えているのだ。
『コンラッドも、閣下が大好きなのにゃ』
グウェンダルに教えてあげられないことを、ちょっと勿体ないな…と思いながら、仔猫はにしゃりと笑うのだった。
おしまい
あとがき
コンユ猫話の名を借りた、グウェコンのようなシリーズ如何でしたでしょうか?(汗)
猫になると妙にツンデレなコンラッド、今回もグウェンダルに不器用な甘え方をしております。ユーリは横でにやにやしながら見守っていることでしょう。
さてさて、これで3周年記念話は一応完了です!
また4周年の時に企画を組みたいと思いますが、それまでは常設連載モノを頑張って参りますね〜。
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