「にこにこ定期便」









 渋谷有利。
 それは眞魔国に住まう王太子殿下のお名前です。

 眞魔国って何処にあるのかって?それは、私達の住んでいる世界からは遠いとも近いとも言えません。ですが、簡単に行き来できないって事だけは確かです。

 通園バスの事故に遭遇して、つるっと眞魔国にやってきた有利も、住んでいたお家にもお父さんやお母さん、お兄さんやお友達の所へも帰れませんからね。

 本当は、有利が成人してから魔王様になる筈だったのですが、《禁忌の箱》という恐ろしいものから滲み出てきた力が、バスの事故を起こしたのだと聞きました。ですから、有利自身が魔力に目覚めるまでは、昔々眞王と契約した要素の護る血盟城で育てられることになったのです。

 眞王廟で水鏡を使った通信で、何度かお母さん達ともお話をしましたが、いつも2、3分しかもちません。 

 でも、有利は幸せでした。
 いいえ…一生懸命に、《おれはしあわせだもの》と思いこもうとしていた…と、言った方が良いのかも知れませんね。

 こちらの世界にやってきてから、とってもとっても周りのみんなが大事にしてくれました。親元を離れた有利のことを何時だって気遣ってくれますから、水鏡通信の時にも、有利はいつも笑顔を浮かべておりました。

『みんな大事にしてくれるの。だから、心配しなくて良いよ?』

 にこにこと笑顔を浮かべる有利を見ると、お母さん達も笑顔になってくれました。
 だから…有利はいつも笑うのです。

 でもね?そんなのが何時までも出来るものではないのです。

 だって…有利はまだ、たった5歳にしかならない子どもなんですもの。



*  *  * 




 スゥ…

 寝台から立ち上がった有利は、そのままふらふらと床に足を降ろします。

「ユーリ?」

 深睡眠が3時間程度で済む上、どんなに深く眠っていても何かが動く気配があるとパチリと目を覚ますコンラートは、一緒に眠っていた子どもが普通でないのを感じました。

 目は開いていますが何が見えているのかは分からないような状態で、コンラートの声も聞こえていないみたいです。
お手洗いにでも行きたいのでしょうか?でも、このまま行かせるのは心配です。衛生的ではあっても、やはり血盟城のトイレはポッチャン便所ですからね。大切な有利がポッチャンと落ちては大変なことです。

 コンラートが後ろをついて行きますと、有利はてちてちと歩いて窓のカーテンを開きました。でも、ちいさく小首を傾げると、今度は玩具箱をひっくり返します。そして、次には廊下に向かう扉へと歩み寄りますが、鍵の掛かったそこは引いただけでは開きません。かちゃんと高い位置にある鍵を倒さなくてはならないのです。

 普段はコンラートが必ず開けているせいか、有利は鍵を開けずに扉を引っ張ります。

 ガン…っ
 ガンガン…っ!

「ユーリ…ユーリ?」

 執拗な行為は、コンラートに不安を抱かせました。単に寝ぼけているだけではなく、何か病的なものを感じたのです。

「………さん…」

 有利が何かを口にしました。
 これは…《お母さん、お父さん、お兄ちゃん…》。
 日本語で、家族を呼んでいるのです。

「どこ…?そこ、いるの…?あかない…ここ、あかないよぉ……」

 ふぇ…。
 どうしても開かない扉に焦れたように、有利は瞳に涙を浮かべました。

 わぁああああん……っ!

 泣きじゃくりながら扉へと体当たりしようとする有利を、コンラートは胸に抱きしめました。

「ユーリ…っ!」

 ああ…どうしてこんなに追い詰めてしまうまで、気付いてあげられなかったのでしょう?寂しいだろうとは思っていましたが、起きているときにはコンラート達に遠慮して、寂しいのだということ自体を表に出せずにいたのではないでしょうか?

 コンラートは胸の奥を、鋭いかぎ爪で抉られたような苦しみを感じました。自分の不甲斐なさが許せなかったのです。

『君をなにものからも護ると誓ったのに…俺は、何一つ出来ていなかった…っ!』

 コンラートはちいさな身体を抱きながら苦鳴を上げます。涙を流すことは出来ませんでした。そんな資格もないと思ったのです。

 ずひ…ぅえ…
 ひくぅ……っ
 えっ…えっ……

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をして有利はひたすらに泣きじゃくります。それは、初めて地球と通信して以降、コンラートにも見せたことのない顔でした。きっと目が覚めたら、こういう顔は隠してしまうつもりなのでしょう。今は寝ぼけているから見せてくれるのです。

 それは、とても寂しいことでした。

『俺に出来ることはないだろうか?』

 起きているときにも、寂しいときは寂しいと言えるように。そして、少しでもその寂しさを癒せるように…。

 コンラートは懸命に考えました。



*  *  * 



 
「コンラッド、今日はおでかけなの?」
「ええ、一緒に眞王廟に行きましょう?」
「…うん」

 一瞬、有利の顔が輝きかけましたが、すぐにしゅんと俯いてしまいます。
 地球との連絡は時空波の障害が少ない時で、しかも巫女達の魔力が充填されてからですので、大体一月に一回程度なのです。だから、眞王廟に行く用事も地球との通信ではないと思ったのでしょう。

 ですが、ユーリは眞王廟に赴いてからとても吃驚することになります。
 そこには…見覚えのある機械と、密封された分厚い包みが置かれていたのです。

「これ…っ!」

 包みが開かれると、更に驚きは増しました。そこにあったのは、家族からの写真と長いお手紙だったのです。
 まだひらがなの読み書きも十分ではない有利の為に、お手紙は絵日記のような、漫画のような感じで鮮やかな色鉛筆を用いて描かれていました。更には、バッテリーにたっぷりと充電したビデオは、再生すると家族の声と姿を鮮やかに映し出します。ほんの僅かな時間しか繋がらなかった水鏡通信に比べて、とっても長い時間映されています。交換用のバッテリーも沢山送られてきましたからね。

「わぁ…わぁあっ!」

 瞳を輝かせて画面に見入る有利に、ウルリーケが話しかけました。

「ウェラー卿の提案で、画像装置や写真を梱包して送り合うことにしたのです。これだと、一瞬の転送ですから魔力の消耗も少ないので、頻繁に送り合うことが出来ますよ?」
「ほんと!?」
「ええ、本当ですよ。空のディスクもたっぷりと送られていますから、ユーリ殿下もどうぞこちらでの生活を映したり、日記や写真をご家族に届けて下さいね」
「うん…っ!」

 こく…と頷いた有利は、コンラートを見上げました。こんな事を思いつくのはこの人しかいないと思ったのです。

「これって…コンラッドが思いついてくれたんでしょ?」
「ええ…ユーリが喜んでくれると良いなと思いまして。どうでしょう?」
「すごく嬉しいよ!ありがとう、コンラッドっ!!」

 有利はぴょんっと跳ねて大好きなコンラートに抱きつきます。寂しいなんて一言も言ったりしなかったのに、コンラートはまるで有利の心を見通していたみたいに手配をしてくれたのです。

『コンラッド、大好き…っ!』

 グウェンダルもヴォルフラムも、ギュンターやヨザックのことも大好きですが、やっぱり一番に大好きなのはコンラートです。

『でも、コンラッドに心配を掛けないようにしないとな…』

 だって、あんまり有利が地球のことばかり懐かしがったら、コンラートが傷つきやしないでしょうか?
 《俺が至らないせいで、ユーリに寂しい思いを…》なんて思わせたら、とっても気の毒です。

『……ビデオ見たり、写真見たりしても、泣かないようにしなくちゃ』

 そうは思ったのですが、実際にビデオを見ているとそうも行きませんでした。お母さんの美子は相変わらず明るい声で、お父さんの勝馬は相変わらず飄々として、お兄ちゃんの勝利は相変わらずつんと澄ましてはいたのですが、やはり何かの拍子に《しばらくは会えない》とか、《寂しい》という話に至ると、《うっ》と声を呑むのです。

 誰かが泣き出しそうなのを…それも、自分にとって大事な人が泣きそうなのを、スルーできる人なんているでしょうか?少なくとも、ちいさな有利には難しいことでした。
 それでも泣かないで居られるようにこっそりと手の甲を抓っていたのですが、その手を取られると、ちゅ…っと紅くなった甲にキスされます。

「こ…コンラッド!?」
「ユーリ、あなたの笑顔だけでなく…泣き顔も俺にください」
「え…?」
「俺はね、欲張りなんです」

 コンラートは琥珀色の瞳の中に、色んな感情を湛えているように見えました。基盤は笑顔ですのに、その中には哀しみとか苦しみとか、焦れったさも滲んでいるのです。

「あなたの感じる全てのことを、共有したい…。哀しいときには一緒に泣きたいし、寂しいときには抱きしめてあげたいんです。どうか…お願いです。俺の前でまで、自分を取り繕わないで?」
「コンラッド…」

 ぽろ…
 ぽろろん…

 ころりころころと滑らかな頬を涙が転げていきますと、後はもう止まりませんでした。

「ふぇ…うわぁあん…っ!!」

 見る間に顔がくしゃくしゃになって、おさるさんみたいな顔になりました。鼻から垂れるものまでありましたが、コンラートは優しくハンカチで拭ってくれます。

「辛かったね…寂しかったね…」
「ゴメン…ゴメンねぇ…。おれ、さみしいなんて言ったら…コンラッド、かなしむとおもって…。泣け…なくて…っ。言え、なくて…っ!」
「いいえ、それは普通の感情ですよ。ね…その顔も、ちゃんと俺や、お父さんやお母さんに伝えたって良いんです。だって、こんなにちいさなあなたが、笑顔しか浮かべていないことの方が心配ですよ?親というのは、名付け親の俺ですらこうして気付いてしまうんです。本当のお父さんやお母さんなら、なおさらですとも」
「でも…はずかし…男の子なのに……」
「ユーリは泣き顔だって可愛いよ」

 ちゅ…ちゅ…っと涙の粒を吸い取るようにキスを降り注ぐコンラートは、とろけそうに優しい顔をしています。
 コンラートだから絵になりますが、不細工なオッサンがこれをやると単なる変態に見えますので、美形は得ですね。

「ほら、撮っちゃいますよ?」
「やーん」

 お顔を両手で隠して走る有利を、小型カメラを手にしたコンラートが追いかけていきます。
 これもコンラートだから(以下略)。

 パシャ
 パシャ!

 沢山の写真の中で、有利は色んな表情を見せました。泣き顔、ちょっと怒った顔、はにかむように笑う顔、腹を抱えて爆笑しているもの…。心配させないようにと浮かべていた、おすまし顔はひとつもありません。

 素のままの、5歳の男の子がそこにいました。 



*  *  * 




『おとうさん、おかあさん、おにいちゃん、げんきですか…と』

 コンラートが記憶を辿って書いた五十音(ちょっとカギ文字でしたが…)表を見ながら、有利はゆっくりと画用紙に文字を書き入れていきます。でも、色んな気持ちを書こうとしても、語彙が少ないせいかなかなか思うようにいきません。勉強嫌いな有利ではありますが、お兄ちゃんが送ってくれたドリルはやはりやった方が良いでしょうね。何しろ、勝利がパソコンを使って、自分で作ってくれたドリルですし。

 でも、今は覚えている言葉を精一杯使ってお手紙を書き、足りない分は絵で足します。

『ええと、ええと…』

 書いても書いてもまだ書き足りない想いを伝えるように、クレパスが色鮮やかに画用紙を埋めていきます。お昼寝の時間が来ても一生懸命書いていたのですが、流石に目がとろとろとしてきて…絵を描いたまま、コトンと頭が卓上に落ちます。

「ユーリ?」

 家族への手紙を盗み見ては悪いかと少し距離を置いていたコンラートでしたが、おねむの有利をそのままには出来ません。ころんと椅子から転げ落ちてしまうかも知れませんからね。

 抱き上げて寝台に運ぼうとしたのですが、ちらりと目が卓上を覗いてしまいました。

 そこにはクレパスで描かれた笑顔全開の有利の横に、やはりにこにこ顔をしたコンラートやギュンター、ヴォルフラム、グウェンダルがいます(一番最後は眉間に皺があるのに笑顔という、不思議な顔ですけどね)。

 《ときどきないたりするけど、だいすきなみんながいるから、ふぁいと、ふぁいとです》辿々しい平仮名で書かれたお手紙は、正直な有利の気持ちでした。

『ああ…これならきっと、大丈夫』

 コンラートは有利の額にキスをすると、満足そうな笑みを浮かべてちいさな身体を寝台に運びました。

 

*  *  * 




 それからの血盟城は、とっても賑やかになりました。

 どうしてかって?地球で現像された可愛らしい王太子殿下の写真が、アニシナの手によって引き伸ばされて、血盟城の至る所に張り出されているからですよ。その技術開発の為に《グ》がついだり《ギ》がついたりする人が生け贄…いえ、犠牲者…いえいえいえ、実験の協力者となったそうです。

「うう…コンラッド、泣いてるのはヤダよう…」
「だって可愛いじゃないですか」
「ヤダヤダ!」

 嫌々をする有利が可愛くて、わざと泣き顔の写真を貼ろうとすると、案の定地団駄踏んで嫌がります。その様子をまた、横からこっそり撮られてしまうのですけどね。

「分かりました。では、これはやめましょうね」
「うん。そういうのは、コンラッドだけが知ってたらいい顔だからね?」
「…っ!」

 無自覚なのでしょうが、それだけに嬉しい言葉に絶句していると、横でカメラを構えていたヴォルフラムが激高します。

「ユーリ!どうしてそうコンラートだけ特別扱いするのだ!僕だってお前のことを可愛がっているだろうが!」
「でもー…。やっぱりコンラッドはトクベツなんだもん」
「何だとぉ!?」

 5歳児と同レベルでぎゃんぎゃんと喚く弟を見やりながら、コンラートはそっと喜びを噛みしめました。そして、ヴォルフラムの手からカメラを受け取ると、パチリと写真を撮ります。

 それは、渋谷家に送る為であると同時に、コンラートにとってのこの上なく幸せな日常を、形にすることでもあったのですよ。



おしまい








あとがき


 意外と膨らまなくてすみません…(汗)
 泣いている子どもって大好きなんですが、泣かせる為のネタを色々と考えた結果、あまり可哀想ではない程度の展開にしてしまいました。

 想像の中では、「お忍びで行った城下町で、お母さんが子どもに《良い子にしていないと浚われて、お家に帰れなくなっちゃうわよ》なんて会話をしているのを見てしまい、《おれは悪い子だから帰れないの?》と思い悩む」とか、「机の中に隠していたノートにびっしりと《おかあさん、おとうさん、おにいちゃん》と書いてあって、それを覗き見てしまったコンラッドが泣く」とか考えたのですが、特に後者は本当に19年間浚われていた女性のエピソードなだけに、胸が苦しくなってダメでした〜。

 コンラッドの傍にいて満たされすぎて、思い出して貰えないのも母としては寂しい限りですけどね(笑)

 そんなわけで、ちょっと淡泊でしたがお楽しみ頂ければ幸いです。