「夏の日の思い出」
黒うさぎのユーリは、悪い人間に攫われかけていたところを、茶うさぎのコンラート・ウェラーに救われた仔うさぎです。
冬に出会った二羽は、眞魔国森で暮らすようになってから始めての夏を迎えました。
特段に暑い、ある夕方のこと…風も吹き込まない蒸し蒸しとした大気に音を上げたユーリは、ぷくぷくパンツと前掛け一丁という思い切りの良い格好でぱたぱたと団扇を仰いでいました。
いつもは元気よくぴんっと立っている耳も今日はへろりと垂れ、ふくふくとした尻尾も何処か元気がなさそうです。
「ねー…コンラッド……ご飯食べたらメロン食べても良い?」
「良いけど、一切れだけですよ?今日はおやつにもメロンを沢山食べてしまいましたからね。お腹が冷えてしまいますよ?」
「うー…冷たくて、とゅるっとしたものが食べたいよぅ…」
普段はあまり我が儘を言ったりしない黒うさぎなのですが、ここ数日あんまり暑いものですから、ついつい涼を求めて食感の良い冷たいものを欲しがってしまいます。
茶うさぎも随分と黒うさぎには甘い方なのですが、黒うさぎの体調に関わることとあっては流石にうんうんと頷くわけにはいきません。
だって、茶うさぎは大兎(おとな)で、保護者なわけですからね。
甘い顔ばかりを見せてはいけないのです。
「ね、ユーリ。冷たいタオルを首に巻いてみて?ああ…団扇を仰ぐのに疲れた?俺が仰いであげますよ」
まぁ…ユーリの体調に差し支えのない範囲では、メープルシロップと練乳とカラメルを掛けたチョコレートみたいに甘いんですけどね。
そんな遣り取りをしているところに橙うさぎが尋ねてきました。
「ちぃーす。隊長、坊ちゃん!」
「わぁ!ヨザック、久し振りーっ!」
「よく来たな。まぁアイスティーでも飲んで行けよ」
橙うさぎのグリエ・ヨザックは茶うさぎの古い友兎で、茶うさぎの兄の濃灰色うさぎフォンヴォルテール卿グウェンダルの部下です。
隠密行動が得意で、各国を旅している橙うさぎはいつも吃驚するくらい素敵なお土産を黒うさぎにくれましたし、それ以上に嬉しいのは、色んな国のお話を生き生きと語ってくれることでした。
「でな…?その時…俺の背後で妙な気配がしたのさ…」
先程からお話ししてくれているのは、橙うさぎが王家の墓の中に潜り込んだ時のことです。
臨場感溢れる語り口と、お墓という不気味なシュチュエーションのもたらす恐怖感はぞくぞくと黒うさぎを震わせました。
怖いけど聞きたい、聞きたいけど怖い…っ!
「その時だ…。ドンっ!と大きな音が響いた」
「わぁ!」
《ドンっ!》という効果音にぴょこたんと飛び上がってしまった黒うさぎは、耳や尻尾の毛を逆立て、ぎゅうっと茶うさぎの腕にしがみつきました。
茶うさぎは体温が低いので、半袖シャツから伸びるしなやかな腕もひんやりとして気持ちのいいものでした。
ですが、黒うさぎにとって気持ちが良いと言うことは、茶うさぎにとっては逆なのかも知れません。
「ゴメンね…コンラッド、熱かった?おれ…からだ熱いよね?」
《嫌だった?》と眉根を下げて問えば、茶うさぎは蕩けそうな微笑を浮かべて否定します。
「いいえ、ユーリ。俺は体温が低いし、ヨザックの話が怖くてビクビクしてしまいましたから、ユーリが腕を握っていてくれた方が安心します」
『なぁ〜に言ってやがんだか……』
橙うさぎはポーカーフェイスが売りですから、滅多なことで心情を顔には表しません。
ですが、茶うさぎのそらっとぼけた物言いには、思わず口に含んだアイスティーを吹き出してしまうところでした。
うさぎのくせに《ルッテンベルクの獅子》等という猛獣の名を冠する彼は、勇猛果敢なこと烈火の如く、冷静沈着なこと氷雪の如しといった具合でしたから、迷信や幽霊といった存在にはとんと恐怖感を抱かない雄でした。
戦時中には兵士が怖がって通ろうとしない戦場までの近道…《死者の道》を、《それでは俺が一人で行く》と単身疾駆してしまい、それを《隊長一人やってはならじ》と、兵士達が泣きながら追いかけいくという情景も見られました。
それでも、まだ幼い黒うさぎにはほんとうの事として信じられたものですから、ほっとした顔で茶うさぎに引っ付いていきました。
「コンラッドは怖いの?」
「ええ、とっても怖いです。ユーリは怖くないの?」
本当はとってもとっても怖いのですが、いつも大きくて頼もしい茶うさぎが怖がっている様子を見ると、なんだか護ってあげたくなって、ついつい見栄を張ってしまいました。
「怖くなんかないよ!ほら、コンラッド…怖かったら、おれが抱っこしてあげるからね!」
黒うさぎはにこにこ顔で茶うさぎの胸を抱き寄せます。
「ああ…ユーリはなんて頼もしいんだろう…。ユーリに抱っこされていると、怖いものんかみんな吹き飛んでしまいますよ?」
茶うさぎはにこにこ顔で黒うさぎを胸に抱きます。
茶うさぎの眦はもうもう…如何ともしがたいほどに熔け崩れ、橙うさぎは直視することを諦めました。
見ていると…変なニヤニヤ笑いが湧いてきて、普通の顔が出来そうにないからです。
『ま…あの抜け殻みたいだった隊長が、こんなに幸せそうな顔が出来るんだ…。坊ちゃん様々だよな』
ヨザックは悲惨な戦争を生き抜いた戦友です。
そして、戦争が終わった直後の茶うさぎの心痛ぶりをつぶさに目の当たりにした友兎です。
いまこうして、茶うさぎがにこにこ顔(ちょっと度は超してますが)でいられることは、橙うさぎにとっても、素敵に嬉しいことなのでした。
* * *
その夜のことです。
不意に目を覚ました黒うさぎは、激しい尿意に見舞われました。
『うー…ぅるる…おしっこ…行きたいよぉ…』
茶うさぎがもう止めておきなさいと言ったのに、冷たいものが欲しくてついつい寝る前にアイスティーを飲んでしまったのです。
早くトレイにいかなくてはなりません。
ですが…トイレに行くためには暗いお庭に出なくてはならないのです。
星明かりがありますし、橙うさぎが遠い国から持ってきてくれた光苔のおかげで足下が見えないということはないのですが…夕方に聞いた怪談話のせいもあって、今日はなんだか一人でお庭に出るのが怖くてしょうがありません。
でもでも…これ以上我慢したらお漏らしをしてしまいます。
黒うさぎはせめてお布団に粗相をしないようにとベットを出ましたが、そのままズボンをぎゅうっと握りしめてもじもじとしてしまいます。
『こ…怖いよぉ……』
急に風が強くなってきたのか、がたがたと窓硝子が鳴り、遠くで《ギャーっ!》っと嗄声(しわがれごえ)が聞こえます。きっと烏か何かなのでしょうが、まるでお化けの叫びのように思えて黒うさぎはふるふるとお耳を震わせてしまいます。
『でも…でも、このままじゃ出ちゃうよ…っ!』
涙目になってへたり込みそうになったその時です。
ぽん…と黒うさぎの肩を誰かが叩きました。
「ふきゃ…っ!」
危ないところでした。
もう少し相手が誰なのか分からないままなら、黒うさぎはこの場で失禁してしまったに違いありません。
ですが、触れた手の感触は馴染んだ茶うさぎのものでした。
「こ…コンラッド…!どどど…どうしたの!?」
「ええ…実は、ユーリにトイレに一緒に行って貰いたくて…」
「……ほんとう?」
「ええ、怖いので、一人で行きたくないんです」
「う…うん、じゃあ一緒に行ってあげる!」
黒うさぎは素晴らしい救いの手をがっしりと掴むと、足早にトイレを目指したのでした。
* * *
「なあ、コンラッド…あれって、俺のためだったんだろ?」
「どうでしょうね?」
あれから、数年が経ちました。
幼仔から少年へと成長を遂げた黒うさぎは、もう色んな事が分かる年になってきました。
ヨザックの怪談話にも過剰に怖がったりはしませんし、茶うさぎがそういった話を怖がっているかどうかの真偽も判別できるようになってきました。
ですが、色んな事をひっくるめて俯瞰的に物事を見定められるほどの年齢でもありません。
ですから…急に昔のことを思い出すと、唇を尖らせて拗ねたりもするのです。
「んー…もう!俺はさ、初めてコンラッドのこと護ってあげられるんだと思って、凄く嬉しかったのにさ!」
「俺はいつだって、あなたに護られてばかりですよ?」
「もー!適当なことそんな良い声で言うなよっ!信じちゃうじゃん!」
「信じて下さい。ほんとうのことですよ?」
「コンラッドってば、どれがほんとうなのか分かんないんだもんっ!」
四肢がすんなりと伸びて、背丈も伸びたけれど…まだ華奢な印象の方が強い黒うさぎは、肩を怒らせてもあまり迫力が出ません。
「では…これはほんとうかどうか分かりますか?」
「なに?」
「だいすきですよ。ユーリ…」
茶うさぎが微かに渋みを帯びるようになった雄の声で甘く囁くと、黒うさぎの頬はぼぅんっと紅く染まります。
「そ…それは……」
「どうです?これはほんとうだと思う?それとも…」
急に茶うさぎの声音と眼差しが寂しそうになるものですから、黒うさぎは分かっていても手管に落ちないわけにはいきません。
「……………ほんとうじゃなかったら…怒るっ!」
真っ赤になって上目づかいに睨み付ける黒うさぎは、相変わらず可愛くて可愛くて…茶うさぎの心をどうにかしてしまいそうなほど殺兎的に愛らしいです。
「俺は…次の誕生日で、ほんとうにあんたの嫁さんになるんだからな?」
成長するに連れて…小さいときの戯れ言と片づけられはしまいかと、いつだって不安だったのは黒うさぎの方です。冗談めかしてそんなことを言うなんて狡いと思います。
「ええ…待ち遠しいな。お誕生日と同時に、結婚式ですよね?」
もうじき…間近に迫ったその日のために、地球森、眞魔国森のうさぎ達は総出で準備をしてくれているようです。
「なぁ…ほんとうに、コンラッド…ちゃんと俺のこと……その………………」
成長するというのは厄介なものです。
小さい頃にはあんなに臆面もなく言えた《好き》が、どうしてだか恥ずかしくてなかなか口に出来ません。
決して、《好き》という気持ちが小さくなったわけではないのにね。
「す……」
息を詰めて眦まで紅く染めてしまった黒うさぎの目元に、茶うさぎはちゅ…っと軽いキスを送りました。
「愛してます…誰よりも、あなただけを…ずっとずっと愛していますよ」
「………っ!」
「ね、ユーリ…。結婚式の日には、恥ずかしくても絶対口にして貰いますからね?」
結婚式には誓いの儀式があります。
そこでは、互いの口から《愛している》と明言しなくてはならないのです。
家族や友人…今まで育んでくれた兎達全部の前で、大きな声で宣言するのです。
「言うよ…絶対、ちゃんと言うから……」
《ちゃんと俺のこと、好きでいてね?》可愛らしいお願い事は、口の中でほろりと熔けてしまいます。
でも…ちゃんと茶うさぎには聞こえているようです。
だって、男前な茶うさぎの表情が、ふにゃらん…っと熔け崩れていますからね!
* 黒うさぎにおしっこをさせるかどうかで激しく葛藤してしまいました。うちの子が3歳の時、公園で呆然とした表情を浮かべたかと思うと…「出た…!」という声と共に《しょしゃー…》っと放尿してしまったときには凄く可愛かったので、ちょっとやってみたかったのですが。そのことをずっと茶うさぎに覚えていられたら可哀相すぎますよね。 *
ブラウザバックでお戻り下さい。
|