「幸福の迷宮」




 
 

 

 質実剛健な構えの血盟城の一室。警備厳重な中庭に面した居室で、魔王こと渋谷有利は目を覚ました。

 高校を卒業してから2年。禁忌の箱を巡る戦いやら厄介な国際問題を乗り越え、眞魔国の治世はすっかり安定した。最近はルーチンの執務以外は珍しく何も心配ごとがない。そのことをじわじわと思い出しながら、心地よい肌触りのシーツに顔を擦りよせる。

 いつもならそこで二度寝してしまって世話焼きな護衛の手を煩わせるところなのだけど、今日はポンッと元気よく飛び起きる。

 こんなに寝起きがいいのは、爽やかな風が室内に吹き込んだせいだろうか。
 窓の外には夏に花開くネルタンの大木がある。もしかしてと思って大きく窓を開き、確認してみると、何日か前から蕾が膨らんできていたのがふわりと開花していた。朝露を浴びた白い花びらは目を、柑橘系の甘い香りは鼻を存分に楽しませてくれる
 
 思わず《くふふ》と笑みを浮かべた。
 今日は素敵な一日になりそうだ。臣下はもとより、国中の人々や訪問客たちも盛大にお祝いしてくれるだろう。
 
 この日、有利は二十歳になる。日本なら本来、今年が成人の祝い年であった筈で、眞魔国ではとっくに十六歳でそれは過ぎたとはいえ、やはり感慨深い。
 これで大手を振って飲酒もできるというものだ。野球の為に身体に悪い習慣にはなるべく手を染めないことにしているが、美形臣下三人衆や王佐が優雅に酒を酌み交わしているのを見ていたりすると、ちょっと一杯くらいは味わってみたいなという好奇心が湧く。

 何もかもに感謝を捧げたくなって、交代制とはいえ夜間勤務につとめてくれた中庭の警備兵に向かって笑顔で手を振ると、畏まった敬礼を返しつつもみんな頬を上気させ、隠しきれない笑みを口元に浮かべているのが嬉しい。
 
 直属の護衛からは《万一不審者が入り込んでいたらどうします》と面白い顔はされないが、自分の為に力を尽くしてくれている人たちに報いたいという気持ちは、多分何年経っても変わらない。

『なにより、あんたに報いたいんだって分かってるかな?』

 大切な名付け親、ウェラー卿コンラート。眞魔国の言語風習発音に慣れた今でも、彼の名は親しみを込めて《コンラッド》と呼んでいる。この国でそう呼ぶのが自分くらいなものだというのが、特別な感じがして変えられないのだ。
 
 一時は敵陣に身を寄せていた彼が、魔王に最も近しいものとして存在することを厭うものは未だに多いが、有利は頑として直属の護衛という立場から外そうとは思わないし、その行動そのものが有利と眞魔国の為に身を切るような思いで為されたものであることを、ことあるごとに繰り返し臣下と民に説いていた。

 これまでの実績から民はとっくの昔に信じてくれているのだけど、臣下の一部については、おそらく感情以前に利害関係から頑なな言動を崩さない者がいるのだろう。
 あまりに傲慢な物言いにむかっ腹を立てることもあるけれど、どうにか殴り掛かりたい気持ちを抑えている。専制君主が暴力に訴えたりしたら、それが《許されてしまう》こと自体が問題だ。好き放題できる立場にあるということは、それだけ自分の中に倫理観を確立させておく必要がある。

『自分で自分を律していかなくちゃならないんだぜ? 一番傍にいる人くらい、自分をちゃんと分かっててくれて、絶対的味方で固めたっていいじゃん』

 ぷくっと頬を膨らませた上に唇まで尖らせた顔を、偶然壁鏡で見てしまって憮然とする。二十歳にしては子供っぽい顔をしていた。

「コンラッド!」

 恥ずかしいのを誤魔化すよう少し大きな声をあげて扉を開けようとしたら、廊下側からすぐ手を添えられる。優しい眼差しを注ぐ大事な護衛は、いつも通りそこに控えていた。睡眠時間確保の為に、あまり早くに来るなよと注意してはいるのだけど、《地球基準で行くと結構なおじいちゃんですから、眠りは短いんです》と笑う。眞魔国では青年なのだから、そういう問題ではなかろうに。

「おはようございます、陛下。今朝は随分と早いですね。顔もしゃっきりしておられる。良い眠りを過ごされたようだ」

 自然に指が伸びてスッと下眼瞼を掠めていくのを、トクンと胸をときめかせながら受け取る。いつもの所作なのに、相変わらず慣れない。

「おかげさまでね。あと、執拗に陛下って呼ぶのは俺に訂正させたいって甘え?」
「ええ。定番のやり取りを愉しみたいという年寄りの娯楽です。広い心でお付き合いください」

 若々しく滑らかな肌をした男がよく言う。まァ。確かに深みのある琥珀色の瞳には、経てきた人生の重みを感じはするのだけど。

『あんだけのことがあって、それでも濁ることなく目がキラキラしてるのって凄くない?』

 大好きな銀色の光彩がいつにも増して煌いて見えるのは、廊下の窓から曙光が差し込んでくるせいだろうか。それとも、特別な朝だという有利の勝手な思い込みによるものだろうか。
 いずれにせよ目に嬉しいのだから、これだけで既に誕生日プレゼントを貰っている気分だ。

『朝にこういう二人きりの穏やかな時間があるっつーのも良いよね。ヴァルフを説き伏せてマジでよかった』

 眞魔国にやってきたばかりの頃ヴォルフラムの押しかけ女房攻撃を受け、なし崩しに同じベッドで雑魚寝ていたのだが、それがどうしても困ると、一年前に彼を説得した。切っ掛けは何だったかなと考えてみれば、見上げた先にあるコンラッドの瞳で思い出す。

『たしか、一瞬だけ…コンラッドの表情が変わったんだ』

 普段はどんなに有利が《あんたの弟だろ。どうにかしてよっ!》と主張しても、《微笑ましいじゃないですか。子猫のじゃれ合いみたいで》と笑って取り合ってくれなかったのに、ほんの一瞬だけではあったけれど、彼が瞳を揺らしたことがある。
 ヴォルフラムがどうしたものか意を決したような顔をして有利にのしかかり、パジャマの襟元に手をかけていた瞬間だ。

『あん時、俺もなんかヤバイって思ったんだよな』

 すっかり気の置けない友達になったものとばかり思っていたヴォルフラムが、有利が彼に向けるのとは違う感情を抱いているのだと初めて明確に自覚した。彼自身は散々、口を酸っぱくして有利に言い聞かせてきたつもりだったろうが、申し訳ないことにその全てが本気として伝わってこなかった。
 
 それが真剣な《男》としての欲求なのだと気づいたのは、ヴォルフラムの真剣な眼差しと、コンラッドの驚きやら悲嘆やら寂しさやら…あまりよくない感情を詰め込んで濃縮させた一瞬の表情に晒された為であった。そして更にタチが悪かったのは、コンラッドが次の瞬間にはそれらをすっかり見えない膜の中に押し込んで、いつもの《微笑ましいですね》という顔を繕ったことだった。 

 何だよ。何で隠すんだよその顔。

 そう思ってしまったのは有利が子供だったからだろうか。コンラッドは大人として、自分が抱く不快な感情をコントロールしただけなのに。有利は何故だか酷く腹が立った。何もかもを有利に与えようとするくせに自分は欲しがらない男が、また望みを手放そうとしていることに苛立ったのだ。

 だからその日のうちに必死になってヴォルフラムを説得し、《友達でいてくれ》《お前と恋愛は絶対にできない》と重々しい口調で告げた。今までの呆れ半分笑い半分なんてものじゃなく、こちらも真剣になって伝えたことで随分傷つけたようだが、それでも、最後には了承してくれた。
 
 あの時、ヴォルフラムは次兄が押し殺そうとしたのと同じ顔をして有利を見た。そして次兄が《兄》としての微笑みの仮面を被ったのと同様、すぐさま《臣下》としての仮面をつけた。
 それが《友人》としての仮面でなかったのは、寧ろ誠意ではなかろうかと思う。それはいつか自然に、素顔として浮かべてほしい表情だもの。
 友達としては、決して失えない男だもの。

『俺はあの日まで、誰も傷つけたくないって思ってた。だけど、コンラッドの顔を見たときに初めて分かったんだ。そんなの言い訳だって。自分が傷つきたくないだけだったんだって。ホントに一番大事な相手ってのは、やっぱ一人しか選べないんだ』

「ユーリって呼べよ。名付け親」
「はい。ユーリ」

 いつものやり取り。
 いつもの柔らかい微笑み。
 ほっ…と、安堵したような表情。
 欲しがらない男が唯一、主に求めるささやかな戯れ。

 最初はただ面倒でしかなかったやり取りが、今では有利にとってもなくてはならないものになっている。

「行こう。コンラッド。今日は朝からガッツリ食べたい気分」
「今朝は特別メニューですよ」

 それは楽しみだ。
 誕生祝の本番はもちろんディナーなのだけど、朝と昼も特別な趣向を凝らしてくれる。王佐辺りが張り切ってアイデアを出したせいで、ちょっとアイタタタな結果に陥ることもあるけれど…それはそれで気持ちだけは嬉しいし。

『ああ、でも。朝飯にありつける代わりにコンラッドと二人きりの時間はおしまいだ』

 朝食は身内だけのこととはいえ、やはりいつものメンバーと顔を合わせて採ることになるし、誕生祝の宴ともなれば、日付が変わるまで多くの人に祝いの言葉をもらい、礼を言わねばならない。そのことを喜んでいた筈なのに、こうしてコンラッドと穏やかなひと時を過ごしていると、これが奪われることに切なさを覚えてしまう。

 決して、コンラッド以外の者がいらないなんてことはないのに。どうしてこんな気持ちが芽生えるのか不思議だ。

「あ…れ?」

 食堂の扉を開けると出来立ての食事が放つ美味しそうな匂いがするのに、何故だかいつものメンバーがいない。しかも普段は過剰なほど配置されている給仕までいないから、不思議に思って隣接した厨房を覗くと、そこには誰もいなかった。
 真っ白なテーブルクロスの上には整然と銀製のカトラリーが並び、淡く緑掛かった釉の皿には、前菜と思しき硬焼きパンのスライスと、艶々して色よい真っ赤なトマト、こっくりしていそうなチーズが盛り付けられ、横には淡黄色のパンナコッタが置かれているが、これは誰が出したというのか。

「あれ? あれ? なんかおかしくない?」
「そうですね。前菜が既に二人分配置されているというのに、何故料理人や給仕がいないのでしょう」

 コンラッドも不思議がって扉を開けようとするが、何故かがっちりと閉じて開く気配もない。

「ふむ、軋みもしない。どうやら、何か魔力が掛かっていますね」
「アニシナさんの悪戯とか?」
「あり得ます。が、一体何が目的なのやら」
「う〜ん…分からないけど、悪い感じはしないんだよね」

 禁忌の箱を封印してからというもの、自分で言うのもなんだかあのヒステリックだった魔力は随分安定してきた。自由自在に操れるというわけではないが、少なくとも、悪意を持った魔力の存在に気付き、これを霧散させるのは得意になった。本来はちゃんと呪文の公式を読み取って分解するのが筋らしいのだけど、その辺はよく分からないので《網目みたいなのがモジャってなってるのを、力技でブチブチブチっとやる》といった感覚だ。

 ただ、好意ある魔力というものにはなかなかお目にかかれないから、これがどういうものなのかは分からない。気を凝らしてみると網目のようなものが見えるのは見えるが、それは薄い金色をした綺麗なもので、力任せに引き裂くのが悪いような気がする。

「なんかこの感じ、馴染んだ感じもするんだよねェ」
「そうですか?」

 コンラッドは警戒を解かない。護衛としては当然のことだし、また、混血である彼に魔力の存在は伝わらないから、余計危機感を抱くのかもしれない。

「あのね。何か優しい感じがする。包み込まれてるみたいな感じ。だから、ちょっと様子見てみよう? 折角前菜も二人分あるしさ。先にこれだけでも食べようよ。厨房の鍋にはスープもあるし、パンも焼きあがって保温用石盤の上に乗っかってる。これだけでも十分な朝御飯だしね」
「分かりました。何かこの状況に刺激を与えるというのも一つの手ではありますね」

 そういうと、コンラッドは席について注意深く前菜を口にしてから有利の前に置き、有利の前にあったものを自分の前に置きなおす。

「毒見とかっ!」
「慣れてくださいよ」

 まだまだこういうのには不満があるけれど、《しょうがないですね》というコンラッドの顔は好きだ。どこか誇らしげで、体を張って有利を守っていることに歓びを感じているのがよくわかる。

 前菜を食べ終えた後、皿とカトラリーがふわりと浮上した。コンラッドは咄嗟に有利を庇ったが、ポルターガイストばりにそれらが襲い掛かってくるということはなく、粛々として平行移動して厨房に入り、今度は深皿がスーっと運ばれてくる。そこには熱々のスープが入っていた。先ほどまで鍋に火はかかっていなかったから、有利達が前菜を食べる間に温めていたのか。

 また同じようなやり取りをコンラッドとしてから一口スープを口に含んだ有利は、《あ》と小さく声を上げた。

「どうかしましたか!?」
「ああ、いや。スープのことじゃないよ。この気配のことっ! これって、血盟城そのものの気配だよ」
「城…ですか?」
「この城って元々、眞王の契約した要素が造ったものなんだろ? だから至る所にありすぎて逆に気づかなかったんだけどさ、スープの中からじんわり伝わってくる。多分これ、《おめでとう》っていう言葉だ」
「しかし不思議ですね。俺たちだけ隔絶していることがどうしてお祝いになるんでしょう? 折角の誕生日だというのに」
「あ」

 不思議そうなコンラッドに言われて初めて、有利は気付いてしまった。

「何か心当たりでもおありで?」
「うーん…ちょっと説明しづらいや。でも、お祝いの気持ちは嬉しいからさ、悪いけど血盟城の気が済むまでコンラッドも付き合ってよ」
「ええ、それは勿論。相手が血盟城なら問題ないでしょう。もしかして、別空間にいるグウェンやギュンターに少々心痛を与えることになるのだとしても、折角ですからこのひと時を愉しみましょう」
「うんうん。流石コンラッド! 融通が利くなァ」
「ユーリが幸せならそれが一番ですから」
「振り切れてる感がイイネ!」

 親指を突き出してグッジョブサインを送れば、コンラッドが悪戯っぽく瞳を輝かせて笑った。珍しく、子どもみたいに屈託のない笑顔だった。有利のほかには血盟城を構成する要素しかいないことが、彼の緊張感を解かせたのかもしれない。

 食事をデザートまで平らげたら自然に扉が開いて、外へと誘うように新鮮な風が入ってくる。中庭のネルタンの花が、爽やかな良い香りを運んでくる。花咲くさまを見てご覧よと誘われているように感じて、有利はコンラッドの手を握った。

「行こう、コンラッド。中庭でキャッチボールしようぜ」
「ええ」

 いつものように苦言を口にすることなく、コンラッドもすぐ頷いてくれた。血盟城が有利に祝福の気持ちを送っている以上、早く戻るためにも有利は欲望に忠実に生きた方がいいのだと分かるのだろう。

 道具を取ってから中庭に出てみると、やはりそこには誰一人おらず、ただ青々とした芝生と今を盛りと咲き誇るネルタンの花々、勢いよく水を吐き出す噴水があるだけだった。朝一番には警備兵達が見えたのだから、きっと魔法はコンラッドと顔を合わせたところから始まったのだろう。

『だとしたら、この状況から脱する鍵を握ってるのもコンラッドなんだろうな』

 突き抜けるような蒼空にぽぅんと飛んだ白球が、陽光のせいかやけに眩しかった。


*  *  *


『一体何故、血盟城は俺とユーリだけを隔絶させたのだろうか』

 ユーリは自分への祝福だというが、寧ろこれはコンラートへの祝いのようだ。常に傍にいるとはいえ、決して独占することのできない人が、この状況を喜んで受け入れているという事実が、眩暈がするほどに幸せだった。

 このままで良いわけはない。ユーリは眞魔国にとって、いや、世界全体にとっても重要な人物であり、いつまでも独占して良い筈もない。それでもこのひとときを味わい尽くしたくて、コンラートはいつにも増してユーリに接触した。

 普段は目元をくすぐったり髪を撫でたりするので精いっぱいなのだけど、今日ははっちゃけて後ろから抱きしめてみる。真夏のことゆえ《暑い〜》とは言うものの、コンラートを背負ったまま噴水にヨチヨチ近づいて行って、掌で掬った水を浴びせてくる。飛沫は陽光を浴びて宝石のように煌き、コンラートの髪や肌を濡らし、軍服に小さな水玉模様を作り出す。お返しにコンラートも水を浴びせてやると、歓声をあげてユーリがはしゃいだ。

「冷たい! 気持ち良い〜っ!」
「この温度なら地球から飛ばされてきても平気?」
「あはは。不思議と狙いすましたように冬場ここ使われるけどね」

 互いにばしゃばしゃと水を掛け合って、《まるで恋人同士のようだ》とほくそ笑む。
 グウェンダルが傍にいれば眉を顰め、ヴォルフラムは…以前ならばキャンキャンと子犬のように吠え立てていただろうが、今は辛そうに眼を眇めるだろうから、きっとこんな風に触れ合うことはできない。
 
 今だけ。
 今だけだから、どうか許してほしい。
 
 そういえばユーリはヴォルフラムと一緒に眠ることもなくなった。眞魔国に来た当初は押し切られる形で同衾しており、そのわりに性的なことは何も起こらない《添い寝》が可愛らしいとしか思わなかったが、ヴォルフラムが性的に成長したのか、ユーリが流石に警戒心というものを覚えたのか、ある日を境に距離を置くようになった。
 
 あの我儘プーをよく説得できたものだと、名づけ子の成長に目を見張ると共に、一抹の寂寥を覚えもした。
 
『こうしてユーリの世界は変わっていくんだろうな』

 周囲に振り回されてその都度大騒ぎしていたユーリも、二十歳になる今はどこか凛々しい顔立ちになっている。気安い同性同士の付き合いではなく、そろそろ気になる女の子がいたっておかしくない。そうなると、破棄してもなお婚約者然として控えているヴォルフラムの立ち位置は懸念事となっていたのだろう。

『ユーリ。あなたがあの子をはっきりと退けられるくらい好きになった娘は誰ですか?』

 今までは何でもコンラートに話してくれたユーリも、本気の恋ともなるとそう簡単には明かせないのか、誰かが気になると匂わせることさえない。
 サプライズ企画が悉く表情から露見していたとは思えない成長ぶりだ。

『これほど成長したあなたが選ぶ娘なら、きっと素晴らしい人でしょうね』

 その娘を愛するあなたごと愛そう。
 子が生まれれば、その子も命の限りを尽くして護ろう。
 それが、ウェラー卿コンラートの愛だ。
  
『でも、あなたが許してくださるというのなら…まだ今日は俺と過ごしてくださいね』

 しかしそういえば、何故その娘と二人きりで過ごしたいと願わなかったのだろう。二人きりにはなりたいが、実現するとまだ何を言っていいか分からず気まずいという意識があったのだろうか。まだまだ距離を詰めていく経過中なのか?

『もしかして、誰にも聞かれないこの状況で助言を期待されているのだろうか』

 ただ、コンラートは男女関係の経験は豊富ではあるものの、こちらから積極的にアプローチを掛けたことがない。白状すればユーリに《爆発して死ね》と告げられそうだが、そういう努力をしなくても向こうから寄ってきたので、そのうち好みの女性をつまみ食いしていたのである。
 しかも最近はそういう薄い恋愛(もはや恋愛と呼んでいいのかすら怪しい)でさえご無沙汰だから、ユーリに気の利いた助言ができるとも思えなかった。

『………ユーリ。この件について俺は無力だ。ですから、どうか聞かないでくださいね』

 大体、幾らユーリが愛する人ごと愛すとはいっても、限度問題がある。二人が付きあうための助力をするなんて、流石に若干被虐傾向のあるコンラートとて忌避した

 結局、多少の葛藤はありつつも思う存分二人きりの時を過ごした。昼食もちゃんと食堂に行けば給仕されたから、しっかり食べて、午後は厩舎の様子を見た。魔族の姿は見えないが、動物はちゃんと存在しているようで(そういえば鳥や虫の鳴き声もする)、愛馬ノーカンティーやユーリの馬アオもちゃんと親し気に嘶いている。

「遠乗りしようぜ!」
「血盟城の外に出られますかね?」
「あ、そうか」
 
 物は試しと騎乗しては見たものの、やはり門を越えて跳ね橋に差し掛かったところで一瞬意識が飛んだかと思うと、目の前の光景が変わって驚いた。城下町に向かっていた筈なのに、いつの間にかくるりと反転して城内に戻っていたのだ。

「しょうがない。馬場を回ろうか」
「ええ」

 城内には鍛練用の馬場があり、ちょっとした障害物も置いてある。ノーカンティーは勿論難なく、アオも随分と奮闘して障害物を越えていった。最後に後足をひっかけてバーを壊したのもご愛敬だ。

 そうこうしているうちに辺りは蜜柑色の光に包まれていく。夏のことゆえ陽が完全に落ち切るのはまだ先だが、この日がそろそろ終わろうとしていることは気配から察せられた。ユーリの誕生日で無くなれば、この不思議な魔法の効果も切れるのだろうか。
 いや、そもそも誕生日の一日を、本当にコンラートが独占してよかったのだろうか。

 しかし、先に謝ったのはユーリの方だった。山々の間に沈みゆく夕日を眺めながら、切なげにぽつりと零す。

「…ごめんな、コンラッド。俺が我儘な願い持ってたせいで巻き添えにして」
「いいえ。俺にとっては楽しい一日でした。久しぶりにあなたを独占しましたからね」
「それも嘘じゃあないと思うけどさ、それだけじゃないだろ? 昼過ぎたあたりからあんた、時々何かが気になってるみたいに視線が逸れてた。あんたは大人で、目の前の楽しみばっかり追いかけてちゃダメだもんな」

 夕日が眩しい。
 ユーリの姿が逆光になっているせいもあって、表情がよく見えないのを少し不安に感じる。微かに軋む声と同様に、あの大粒の瞳を揺らしているのだろうか。黒曜石のような瞳に浮かぶのが、どんな意味で拗ねた感情なのか分からない。

「それでも俺は幸せだった。もしこの先も血盟城が俺を祝福してくれるのなら、また来年もその先も…あんたがちょっと迷惑だって思っても、どうか俺と過ごしてよ。そうしたら、あとの364日は我儘言わないから」

 この先も。
 ずっとずっと先も。
 あなたは俺と共に誕生日を過ごしてくれるというのか。

 何故。
 どうして?

 問う代わりに、コンラートは言葉にできない衝動に駆られてユーリの細い体を抱きしめた。まるでじれったさに耐えかねた血盟城の精霊たちに背中を押されたようではあったが、内なる自分の声に従ったのだと信じたくもある。

 自分を卑下する言葉を口にして、《もう次の年には好きになった女の子と二人きりでいたいと望んでおられますよ》なんて言うことはできなかった。

 ユーリが、静かに泣いているのだと気づいたからだ。

「コンラッド…」
「愛しています」
「…っ!」
「すみません、ユーリ。俺は…鈍ちんの大馬鹿野郎です」
「え? え?」
「…あれ?」

 実は秘められた想いを向けられていたのは自分だったのでは? という甘い衝動に駆られて抱きしめたコンラートだったが、ユーリにキスしようと両頬を掌で掴んだものの、そのまま硬直してしまう。彼の瞳にあったのは予測していたような《やっと気づいたのか?》という苦笑ではなくて、虚を突かれたように唖然とした顔だったのである。

 一瞬にして血の気が引いた。
 もしかしてもしかしなくとも、何か大勘違い大会を開催してしまったのだろうか。
 あんなに真剣な様子で、涙まで零してコンラートと二人きりの誕生日を切望したというのに、ユーリの愛はストイックなままだったのだろうか。

「………あ、いしてますよ? ほんと。ええ。大事な名づけ子、ですから…」

 コンラートらしくもなく、語調がしどろもどろになる。今鏡を覗き込んだら、キョドキョドと目が泳いでいるのではなかろうか。
 てっきり性的な意味でユーリに求められていると思い込んだものだから、そんな自分が恥ずかしくて、年甲斐もなく泣き出しそうになってしまう。このまま何事もなく原状復帰して自室に戻れた暁には、涙で枕を濡らしていいだろうか?

「コンラッド…お、俺に…キスできちゃうひと?」

 ひいぃ。
 誤魔化されてくれないですかそうですか。

「しんあいのきすですひたいにするところでした」

 しまった超棒読み。
 どこで区切っていいかすら分からない。

「そ、そっか…あ、ははっ! そうだよなっ!」
「そうですともっ!」

 セーフっ! セーフっ! 滑り込みセーフっ!!

「だよねェ…」

 泣き笑いの表情になって、ぼろぼろとユーリが涙を零す。鼻水まで垂れそうなその顔に、コンラートは困惑した。

 ああ、もう。ダメだ。そんな顔をして泣かれたら、可哀想で可愛くて、どうしていいのか分からなくなる。
 もうアウトでもいいからブチまけてしまいたくなる。

「すいません。俺はあなたの唇にキスして、身体の奥深くまで知りたいひとです」

 どうしよう。今、コンラートのIQは3くらいだ。射精した直後並みの知能指数で、喘ぐように告白する。

「そんな俺でも、毎年二人きりで過ごしたいと願ってくれますか?」

 すっぽりと身体全体で抱きしめながらも、拘束力が弱いことには気づいてくれているだろう。危機感を覚えれば逃げ出せれる程度だ。

「お、俺も…そう、みたい」
「そう…?」
「どうしてあんただけこんなに特別なのか、ずっと分かんなかったけど…そうなのかな。そうだからなのかな。俺も…あんたと心だけじゃなくて、体ごと触れ合いたいひとみたい」
「奇遇ですね」

 違う。今返すべき気のきいたセリフはそれじゃない。
 働いてくれ語彙力。
 恋の鞘当てなら手慣れている筈ではないか、ウェラー卿コンラート。なんだってこんな時に限って口が回らないのか。
 
 それでもユーリは漆黒の瞳いっぱいに、今度は嬉し涙を浮かべて見つめてくれた。

「あんたが唇にキスしてくれそうって思ったとき、すっごい吃驚して…でも、弾け飛びそうになるくらい嬉しくて、初めて《そうだ。俺はそういう風にコンラッドが好きなんだってストンと自分の中に落ちてきた。でも…コンラッド、すぐ親愛のキスみたいに訂正しようとしたから、勘違いだと分かったらドン底に突き落とされるみたいに悲しくて、《ああ、ヴォルフもこういう気持ちだったんだ》って、初めてあいつが苦しかったの分かった気がした》
「酷い悲しみをあなたに与えてすみません」
「それ以上の嬉しさを与えてくれた人が何言ってんの? へへ…こんな素敵なプレゼント他にないよ?」

 ちいさな顔を両手で包み込む。大切な花を取り囲むように、そっと、優しく。
 そして鳥の羽のように触れるだけのキスなどという、若い時分にも覚えがないような拙いキスをした。いきなり深く触れ合ってしまったら、罰が当たりそうな気がしたのだ。こんなにも清く、輝かしい存在に恋愛という意味で触れているというだけで恐れ多いのだから。

「ん…ん」

 粘膜が触れ合っているという只それだけのことが、頭の芯がジンと痺れるほどの歓喜をもたらす。無上の愛を注ぐ相手に愛し返されるということは、こんなにも幸福なことであったのか。

 ありがとう。
 ありがとう。

 感謝の言葉が清水のように湧き出してきて、全身の細胞を瑞々しく浸していくようだった。

 感極まったまま伏せていた瞼が、ふと明るい光を感じて瞬いた。ゆっくりと夕闇に包まれつつあった空が、色を変えている。
 いや、そらだけではない。辺りの風景が見るまに変化していく。
 気が付くと二人は、魔王居室の扉の前で呆然と抱き合っていた。

「あ…れ?」
「朝…っ!?」

 ユーリも気付いたようで、ピョンと跳ねるようにしてコンラートの腕から飛び出していくと、窓を大きく開いて中庭を覗き込む。

「みんな…っ!」
「魔王陛下、お誕生日おめでとうございますっ!」 

 少し上ずった警備兵達の声が響く。喜悦に満ちたその声は、親愛なる魔王陛下に祝福を送れる仕事のシフトに、感謝を捧げているようだった。

「みんな…朝と一緒のメンツだ」
「では…全て元通りに?」

 今朝はがらんとしていた廊下にも次女や掃除夫が行きかって賑やかだ。食堂に近づいていけば、何やら喧々囂々と意見をぶつけ合う声がする。どうやら、ユーリへのプレゼントについて王佐と弟の意見が分かれているらしい。

「はは…はっ! みんないるっ!!」
「嬉しいことですね」
「そりゃ勿論」

 にっこりと微笑むユーリに聞き分けのない女のように《みんなといるのと、俺と二人きりで過ごすのどちらが楽しいですか》と問うたりはしないが、それでも似たようなニュアンスの発想が浮かんで自己嫌悪に陥る。

 するとユーリはますます笑顔になってこう言ったのだった。

「だって血盟城が愛してくれている限り、俺は恋人と丸一日イチャイチャした上で、仲間たちとの誕生日も過ごせるんだぜ? それって最高じゃんっ!」

 なるほど、どちらも同じだけ嬉しいなら、両方与えてくれる血盟城は最高のプレゼントを寄越したことになる。
 ではコンラートも、大人しく他の連中に祝われているユーリを見守ろう。

 心の整理をつけたかに見えたコンラートだったが…。

「そんで…夜は、俺と過ごしてくれるんだろ? コンラッド」
「…っ!」

 そんな小悪魔風の誘い文句どこで覚えたのかと、名付け親として問いただしたい気持ちと、愚かな男として指先で転がされたい気持ちが相まって、コンラートは口元を掌で隠した。大きな手をしていてよかった。そうでなかったら、愛しい人ににやけた間抜け面を拝ませてしまうところだった。

「愛してますよ、ユーリ」
「もっともっと好きになってね。俺も…そーするからっ」

 臣下たちのもとへと駆け出したユーリの耳は、熟れた桃みたいな紅色をしていた。



おしまい


あとがき




 1年ぶりのお誕生日話如何でしたでしょうか。
 なにやら手探りで二人の関係性を思い出していくのに行数を取られてしまって、新たな展開はそんなになかったわけですが…後半は安定のへたれ次男がテンパりながら精いっぱい頑張るお話になり、「そういえばこんな感じだったないつも」と思い出しておりました。

 ではでは、また来年も気が向いたら覗きに来てください!