「時を越えて待っていて」

 

 

 もうじき古い一年が終わりを告げる。

 

 血盟城内の大ホールには今か今かとその瞬間を待ち侘びる者達が、新年までは1時間以上猶予があるというのに…そわそわと落ち着かなげに大時計へと視線を走らせる。

 紳士も淑女も、厨房見習いの小僧も傍仕えの下女も…それぞれに想い人を定めてその瞬間を待ちかまえ、血盟城の大時計が深夜十二時を告げると同時に、場内はおろか城下町の者達も勇んで愛する者の前に馳せ参じることになる。

 何故なら、この時だけは身分の貴賤にかかわらず、愛する者に口吻を送っても構わないという不文律があるのだ。

 もっとも…貴賤にかかわらず…というのは宴会における《無礼講》と一緒で、あくまで普段よりも規制が緩いというだけなのだが…それでもきっかけ作りにはもってこいの習慣なのである。

 

 

*  *  *

 

 

「…で、何で俺はこんな格好なわけ?」

「衣装を選べと言ったのに、面倒くさがって《何でも良い》と言ったのはお前だ」

「うぅ…」

 

 確かに言った。

 言いました。

 

 しかし、まさか…一応は《魔王陛下》などというご大層な肩書きを所持している自分が、公衆の面前でこんな衣装を着せられるとは思っていなかった…というのが、正直な有利の思いであった。

「とてもお似合いですよ」

 傍らでくすくす笑っているのはコンラート。

「人ごとだと思って…」

「人ごとだからな」

 ニヒルな笑みを浮かべ、あっさりと愚痴を叩き返すのはグウェンダル…。

 

 ぶちぶちと愚痴る有利に対して、グウェンダルの方はいたく御機嫌であり、コンラートは楽しげな笑みを湛えている。

 無論、《強面》をもってアイデンティティーの中核と為しているグウェンダルの事であるから、浮き立つその想いをそのまま表情に顕しているわけではないのだが…唇の端が、気がつくと笑みを型づくってしまうのだ。

 …というのは、いま魔王陛下が着込んでいる衣装というのが実にグウェンダル好みの…つまりは、《愛くるしい》代物なのである。

 白いうさ耳つきファーコートはふんわりと有利を包み、膝上までの裾野から覗く膝っこぞうはピンクと黒のボーダーニーハイに、脛部分から下は少しごつい素材のブーツに包まれており、ゴシックロリータめいた愛らしさを醸し出している。

 瞳には赤みのあるコンタクトを入れており、黒髪の方もファーコートを目深に被るとすっかり隠れてしまう。下には一見つなぎのように見える黒シャツと短パンを穿いているのだが、厚手のコートに隠れてしまってよく分からない。また、コートのせいで身体のラインも不分明になってしまうことから、ちょっと見では魔王陛下であることはもとより、男女の区別もつかないような風貌である。

 

「もー…あんたらは良いよなぁ!」

 有利が愚痴りたくなるのも仕方ない。

 グウェンダルはクラシカルな濃紺の燕尾服に顔の半分を隠す仮面といった《オペラ座の怪人》めいた衣装で、コンラートは純白の法衣のようなものに包まれて聖人のような微笑みを浮かべており、やたらと格好良いのである。

「うぅ…コンラッドはその法衣似合わないと思ったのになぁ…畜生…いい男はなんで何着ても似合うんだっ!」

「嬉しい賞賛のお言葉ですね」

「うん、似合いすぎだよ。まるでギュンターみたいだぜ?」

「………そう…ですか?」

 純粋な賞賛の言葉はしかし、複雑な表情をもって迎えられたのであった。

 元教え子からギュンターに送る眼差しは、必ずしも暖かいものではないらしい。

「うー…俺のこの格好はやっぱどーなの?グレタとかが着たら抱きしめたくなるくらい可愛いだろうけどさ…」

「陛下も抱きしめたくなるくらい可愛いですよ?」

「いや、俺を抱きしめたくなってもしょうがないだろ…つか、あんただってさっき…俺の格好を最初に見たときには点目になってたじゃないか」

 滅多なことでは驚きを顔に表さないコンラートが、部屋から出てきた有利を目にした途端…声を失って凝視していたのだ、さぞかし引いていたに違いない(…と、有利は認識している)。

「違いますよ。そういうんじゃないんです…」

 どうしてだかコンラートは言い淀むと…深い笑みを湛えて有利を見つめる。

 その眼差しは、何故か懐かしむような…しみじみとした情感を湛えているように思えた。

「コンラッド?」

「…」

 黒曜石の瞳と琥珀色の瞳とは…暫くのあいだ見つめ合っていたが、妙な鼓動に耐えかねて視線を逸らしたのは有利の方だった。

 時々…この名付け親は不思議な眼差しで有利を見やることがある。

 そんな目をされると、決まって有利は心悸亢進・顔面紅潮・発汗増大といった症状を示すのだった。

 その三大徴候が如何なる症候群を指し示すものなのか…経験不足の有利には理解することが出来なかった。

「それにしても壮観だなぁ…みんな結構変な服着てるよな」

 何とか話題を見つけようと視線を漂わせれば、宴席に集った人々の様子が目にはいる。

 勿論、新年を迎えるに際して見窄らしい仮装になっている者はいないのだが…皆、なんとも風変わりな衣装を身に纏っているのだ。

「こういう場で衣装がかち合うと気まずいですからね。みんな早くからリサーチを始めたりして、結構気にしているんですよ?」

「全く無関心だったのは、おそらくお前とコンラートくらいなものだ」

「え?コンラッドも?」

「ええ…俺もまさか自分まで仮装するとは思いませんでしたからね。この衣装も間に合わせですよ。俺は陛下の警護なのだから、いつもの軍服で良かったんですけどね…」

「警備兵は厳重に配備している。お前は…」

 グウェンダルが何か言いかけたとき、コンラートはヴォルフラムに何事が呼びかけられて、小さく会釈するとそちらに向かった。

 中途半端に口を開いたまま残されてしまったグウェンダルに、有利はひそそ…っと問いかけてみる。

「さっき、コンラッドに何て言おうとしたの?」

「う…む……」

 グウェンダルは渋面を掌で撫でつけながら言いにくそうにしていたが、じぃ…っと見上げてくるつぶらな瞳に促されて、咳払いの後…無愛想に語り始めたのであった。

「あいつは…コンラートは……。昔からこういう催し物に縁がなくてな…」

「宴会嫌いってこと?」

「そういう向きもあるだろうが…それ以前に、あいつの立場はこの国では長年微妙なものだったからな…。あの戦役の後はともかく、それ以前には身分の高い連中の集まりには《混血だから》と除外され…かといって、下々の集まりに参加するには《魔王の息子》という地位は煙たがられたのだ…」

「……そっか…」

 有利はこく…と頷くと、コンラートに視線を送る。

 気配に敏感なその男がふり返り、にっこりと微笑みかけてくるのに小さく手を振った。

 飄々として捉え所のない様な…風のような所があるウェラー卿コンラートにも、自分の血筋や身分のことで悩んだりした時期があったのだろうか?

『そりゃなぁ…生まれたときからあんなに達観したような顔してたわけじゃないよな?』

 今だとて、本当は心中に燃えさかる焔を持つ男なのだと思う。

 さらりとした顔をして、有利を《あなたはもう俺の王ではない》なんて言ったくせに…極限まで追い込まれて、眞王に与えられた役目との桎梏の中から有利を選択した時…彼は迷いなくその身に矢を受けた。

 背後から見守るしかなかった有利に彼の表情は見えなかったけれど、どんな顔をしているのかだけは分かった。

 怯まない…その瞳が、明瞭に有利の胸に結像していたから…。

 切なくて、もどかしくて、辛くて…それでも、自分を全身で庇い…真の忠誠を誓うコンラートを見たとき…それだけではない感情が有利の中に渦巻いた。

 

 今もまだ…その感情に名前を付けることは出来ないのだけれど…。

 

『グウェンダルも、同じような気持ちなのかな?』

 様子を伺ってみると、グウェンダルの眼差しはまた自然と綻(ほころ)んでおり…その視線の先には、弟たちがいた。

 長年仲違いを続けていた次男と末弟が何事か口喧嘩を交わしながらも、笑顔で言葉を交わしている様を見ていると…ついつい目元が緩んできてしまうらしい。

「グウェンは、コンラッドに楽しんで欲しいんだね?」

「……」

 グウェンダルは沈黙してしまったが、背けた頬が微かに紅色に染まっているのは、決して酔いのせいだけではないだろう。

 この長兄は弟を想いながらも、生来の無愛想さが祟ってか…長年、思うように行動することが出来なかったに違いない。

 だからこそ…珍しくもこうして年越しの宴に参加し、楽しそうに仮装などしている弟の姿を見ることが、有利の愛くるしい衣装を見ること以上に彼の心を浮き立たせていたに違いない。

「えっへっへー…良いお兄ちゃんしてるじゃーん」

「煩い…っ」

 居たたまれなくなったのだろうか?

 前魔王の長兄は、《敵前逃亡》を選択してしまった。

 

*  *  *

 

 残された有利はふと後ろのバルコニーをみやった。

 季節の良い時分には恋人達が談笑を楽しむ場にも、流石にこの寒さの中では人影など見えない。

 それには、昨日から降り続く雪のせいもあるだろう。

 今朝方清掃をしたようだが…また降り始めた雪が、堅牢な手すりや床面をふっさりと柔らかい新雪で覆っている。

『キレーだなぁ…』

 ふと見れば、バルコニーから手の届きそうな所に南天に似た赤い実が見える。

 濃い緑色の葉も鮮やかなものだから、誘われるように有利はバルコニーに出た。

「ん…と」

 バルコニーから近いと思ったのだが、手を伸ばすと意外と距離がある。

 手すりから身を伸ばし、やっと掴めた…と思った瞬間、突然の強風に煽られて有利の身体が枝に引っ張られてしまう。

「あ…っ」

 手すりに掛けていた手もつるりと滑り…有利の身体はバルコニーの外に投げ出されてしまった。

 

『墜ち…るっ!』

 

 きゅうっと目を閉じて身体を硬直させた瞬間…

 世界が、《くにゃり》と曲がったような気がした。

 

 …が、それは錯覚だったのだろうか…有利の身体はすぐに重力に従って大地へと引き寄せられた。

 しかし…その身体を受け止めたのは硬い凍土ではなく、人の腕であった。

「ぅ…くっ!」

 結構な高さから墜ちてきたものだから、相当加速がついていたのだろう。

 受け止めてくれた人物はぐらりとよろめくと、有利の身体ごと植え込みに突っ込んでしまった。

「ん…」

「君…大丈夫?」

 どこか聞き覚えがあるような気がするが…誰のものとは特定の出来ない声音は甘い響きを持つ伸びやかなもので、年若い少年のもののように聞こえる。

 だが、先程まで煌々と中庭を照らしていた月はいつの間に翳っており…大広間から零れてくる灯火が逆光になってしまって、相手の顔を確認することは出来なかった。

「大丈夫…あ、ありがとうな?助かったよー、マジで大怪我するかと思った!」

 植え込みの中から身を起こすと、有利は慌てて下敷きにしている少年を引き起こした。

 しっかりと鍛えているようだが、直立した身の丈は有利よりも幾分小さめだった。

 自分よりも小柄な少年を下敷きにしてしまったのだと思うと、有利は穴を掘って潜り込みたいような心地になる。

「そうですね、あんな所から墜ちるなんて…空を飛べるわけではないのですから、気をつけた方が良いですよ。どんな身分の者でも、死ぬときは死ぬのですからね」

 案の定…少年の言葉も響きも幾分不機嫌で、反射的に助けてはくれたものの、今現在気分を害しているのは確かなようだ。

「うん…本当にゴメンな?あんた、怪我とかしてない?」

 素直に謝罪の言葉を口にして頭を下げ、涙ぐみながら救助者の身体を改めようとすると…少年は吃驚したように身を離した。

「黒…?」

 言われて気付くと、うさ耳フードが頭から外れ…雲間から差す月光が、丁度有利の姿を白い背景の中に描出させていた。 

「あー…」

 双黒の魔王を知らぬ者など居ない。

 幾ら瞳に赤いコンタクトをしているとはいえ、この髪の色では有利の身分に気付かれてしまっただろうか?

 しかし…少年はますます身を離すと、硬質な声で突き放すように言った。

「黒髪とはまた…随分と高貴なお方のようだ…」

「…え?俺のこと…知らない?」

 きょとりと見やった先にも月光は広がり…

 …しなやかな少年の体躯を浮き立たせた。

 

 少年の容貌は…大枠では有利のよく見知った人物のものだった。

 だが…

 

「コン…ラッド?」

 

 ぽかんと口を開けて問えば、コンラート《少年》の眉はひくりと跳ね上がる。

 このようにあからさまな表情を見せるコンラートなど、有利は初めて見たと思う。

 それに…幾らか見下ろす位置にある身長と、やや吊り気味ながら大きめの瞳は有利よりも更に年下のように見える。ただ、混血とはいえやはり魔族な訳だから、実年齢で言えば50歳くらいなのだろうか?

「お初にお目に掛かります…コンラート・ウェラーと申します。どうやら俺…いえ、私の事はご存じのようですが、不調法者ゆえ、私の方はあなたのお名前やご身分は存じ上げません。ご無礼は平にお赦し願いたい。また…高貴なお身体に混血の手が触れたことも、そのお命をお救いしたことで相殺して頂きたい」

 如何にも嫌そうに…なるべく迅速にこの場を離れたいとでも言いたげに告げる言葉が切なくて…有利は踵を返そうとするコンラートの手を捉えると、きゅうっと両手で包み込み、深々と頭を垂れた。

 

 一体何故、自分の目の前に年若いコンラートがいるのかは分からない。

 

 自分が過去に紛れ込んだのか…。

 それとも、コンラートが未来に紛れ込んだのか…。

 けれども…そんなことよりも、もっともっと有利には気に掛かることがあった。

 

 コンラートに、自分を蔑んだりして欲しくない。

 

 どんな時代の、どんなコンラートにも…自分自身を卑下したりして欲しくない。

 

 だって、コンラートは有利にとって…とてもとても大切な人なのだから。

 

「俺は…あの、シブヤって言うんだ!助けてくれて、本当にありがとう!!」

 深い感謝と…尊敬の思いが伝わるようにと、有利は精一杯の誠意を込めて礼を言い…掴んだ手に思いを込めた。

 

 冷たいその手に…

 硬化したその心に…

 少しでもこの温もりが伝わるようにと。

 

 コンラートは驚いたように目を見開き…まじまじと有利の姿を見つめた。

「俺を…混血児を、厭われないのですか?」

「俺だって混血だよ?親父が魔族でお袋が人間なんだ。でも、親父のこともお袋のことも同じように好きだよ?コンラッドの父ちゃんだって凄く格好いい人なんだろ?サゲスムなんてそんなの出来るわけないじゃん!」

「混血…?あなたが?」

「あなたとか敬語とか止めてよー。コンラッドは俺を助けてくれた恩人だろ?もっとこう…さ、《感謝しろ》くらいにドーンっと構えてて良いって!」

「しかし…」

「…駄目?」

 うるりと瞳に水膜を浮かべれば、赤いコンタクト越しにも愛くるしい瞳がコンラートを激しく動揺させた。

『何なんだ…この方は?』   

 

*  *  *

 

 コンラート少年は数年前からこの血盟城で生活することを余儀なくされている。

 父であり、放浪の騎士でもあったダンヒーリー・ウェラーが大往生を迎えてしまったため、母に引き取られる形になったのだ。

『父上の願いとはいえ…ここはどうもきついな』

 来た初日から早速そのような感慨を浮かべていたコンラートであったが、時が経つごとにその想いは一層強いものになっていった。

 この城に来た当初から、コンラートに対する風当たりは強かった。

『混血児が栄誉在る魔族の王城で暮らすなど…!』

 陰口は勿論のこと、正面切って唾棄するように言われたこともある。

『宴席に同座するなど我が家門の穢(けが)れとなるわ』

 叔父と呼ばれる立場の男にまで侮蔑の言葉を吐かれ、おろおろと戸惑う母を苦しめたくないという事もあり…コンラートは自分から公式な場に席を連ねることを敬遠するようになった。

 母も息子の方から申し出れば無理に同座を求めることもなく…コンラートとしてはある意味気楽に過ごせるようになったので、宴に出なくて良いこと自体はそれほど苦痛というわけではなかったのだが…。

 ただ…兄弟との…特に、小さい時分にはコンラートを《ちっちゃい兄上》と呼んで慕ってくれた弟との距離が遠くなってしまったことだけが…心を冷たい氷で浸していた。

 

 《混血》であるということ…。

 

 それは…この国においては、それだけで《罪》になることなのだ。

 

 人間である父を、誇りに思っていた。

 だが…その事を口にすることなど、コンラートには許されてはいなかった。

 

 なのに…何故、この美しい少年は…その形良い唇で、一欠片の悪意も含まぬ純粋な眼差しで自分を見つめ…父を、《格好いい》と形容し、自分を《混血》だなどというのか。

『どこからどう見たって…純血の魔族じゃないか…』

 すべらかな頬…くりくりとした瞳を縁取る長い睫、小さいが形良い鼻と、同様に小さいが《ぷくっ》とした質感が愛らしい唇…。

『こんなに可愛らしい魔族など…どんなに身分の高い貴族の中でも見たことない…』

 奇跡のように麗しいその容姿で、《混血》などということがあるのだろうか?  

 万一そうなのだとしても、まさかこの国で自分が混血であることを…人間である親を誇らしげに口にする者がいるとは…。

 コンラートのことを《コンラッド》と呼んだりするその発音の癖から考えて、随分と田舎の方から上京してきたのかも知れないが、それにしても……。

『こんな方が…この国にはいるのだ』

 頭の芯が痺れるように震え…コンラートの腹蔵を熱く燃やすものがある。

  今…自分は酷く感動しているに違いない。

 だが、同時にこの純粋すぎる少年の行く末が心配になったりもする。

「シブヤ様、あなたは…一体何処の地方にお住まいなのですか?どうやら、随分と差別意識の薄い地方で過ごされたようだ。…とても羨ましいことではありますが、この城の中では混血であることは秘しておられた方がよろしいかと思われます。要らぬ不快を感じられては気の毒だ」

 実際、コンラートが想像してみるに…この純粋な少年が、自分が味わったような屈辱を公衆の面前で浴びせられたら…それを目の当たりにしたら…どんなに心が冷えることだろうか?

 

 このつぶらな瞳が悲しみに染められ…

 この花弁のように愛くるしい唇が、悔しさに噛みしめられたりしたら…

 

 コンラートは、母の体面など瞬間忘れ…彼を倦(う)ませた者に拳をあげるのではないだろうか?

「やだよ!」

 ぷくっと唇を尖らせて反抗する有利に、コンラートは困ったように嘆息する。

「シブヤ様…」

 コンラートよりは20か30は年上に見えるのに、随分と子どもっぽいように思える。 だが…《そこがまた可愛い》などと思ってしまう自分に、コンラートは軽く目眩を感じた。

「様って言うなよ!シブヤでいーよ」

「では…シブヤ。聞き分けのないことを仰らないで下さい。この城は魔族の中でも特に血統意識の強い連中の根城なんですよ?余計な軋轢や不快感を味わいたくなければ…」

「やだ。アツレキだの不快感だのがどうこうよりも、俺…自分が親父とお袋の子だって事、絶対何処に出したって恥ずかしくないもん。いや…まぁ、あんまり誇らかに提示出来るほど凄い親かっちゅーと、客観的に見ればそーでもないんだけど…。でも、まぁ…やっぱり間違いなく俺の親なわけだし…それに、時々は本当に凄いなって感心することあるしね。それはさ、誰に何て言われたって俺は貫くよ?」

「シブヤ…」

 眩しいような笑顔を浮かべて、有利が微笑(わら)う。

 に…っと、挑戦的なその笑みは美麗なその容貌を一層際だたせて…力強ささえ感じさせる。

「シブヤ、あなたは年越しの宴に参加しておられたのでしょう?それこそ、選民意識の強い貴族連中に囲まれて…酷い嫌みなど言われなかったのですか?」

「うーん…そりゃ、育ちが悪いから下品だとか囁かれてたのは聞いたことあるけど…」

「…っ」

 ぴくりとコンラートの眉が跳ね上がる。

「まさか…バルコニーからも、落ちたのではなく…落とされたのでは?」

 殺気さえ感じさせるその声音に、有利は慌てて手を振った。

「ち…違うって!そこまで酷い目にあったりはしてないって!あの実が欲しかったんだよ!」

 有利の指し示す赤い実に、コンラートはきょとんと目を見開いた。

 そんな表情をすると、流石に年相応の少年らしく見える。

「あの実…ですか?あれは食べられませんよ?」

「いや…喰おうとした訳じゃなくて……雪うさぎを作りたかったんだよ」

「…雪うさぎ?」  

「この国…いや、この辺じゃ作らないのかな?俺の住んでる辺りじゃあ、雪が降ったら雪うさぎと雪だるま作成は外せないよ?」

 有利はそう言うと、ベンチの上に降り積もっていた綺麗な雪をひと掴みとり、きゅきゅっと小気味よい音を立てて楕円形にすると、そこに自分の落下と共に落ちていた赤い実と深緑の葉っぱを填め込んでみた。

「ほら…どう?」

「へぇ…可愛いもんですね」

「だろ?」

 にこぉ…っと輝くように笑う有利に、コンラートは自分の頬に紅が差すのを感じた。

『脈が速い…それに、シブヤが色んな表情を見せるたびに…なんて心が騒ぐんだろう?』

 この不思議な少年に、コンラートはすっかり魅せられてしまったらしい。

「えへへ…これ、コンラッドにあげる」

「いいんですか?バルコニーから落ちるくらい作りたかったものなのでしょう?」

「んー…」

 作りたかった…というより、作って…そして、見て欲しかったのだ。

 数十年後の、コンラートに。

 なので…有利は曖昧に微笑むと、押しつけるようにしてコンラートに雪うさぎを委ねた。

「なんだったら、グウェンにあげなよ。喜ぶから」

「グウェン?…フォンヴォルテール卿のことですか?」

「うん、そうだけど…なんでグウェンのことそんなふうに呼ぶんだよ。兄ちゃんだろ?」

 堅い呼び方に違和感を感じて小首を傾げれば、コンラートの方も不思議そうに首を傾げる。

「…フォンヴォルテール卿は…確かに兄という関係にはなっていますが…あちらの方はその様な係累であることなど認めたくはないでしょう…。なにしろ、純血貴族ですからね」

 他の貴族連中と違って正面切って嫌みを言ったりはしてこないが、フォンヴォルテール卿グウェンダルという男は何処で顔を合わせても、眉間に皺を寄せて軽く会釈するだけであった。

「んなことないって!グウェンは確かにちょっと…いや、かなり無愛想だけど、コンラッドのこと絶対好きだぜ?なあ、その雪うさぎ…絶対絶対渡してよ?んで、表情をよく見ときなよ!無愛想にしてても、目がにやけそうになってるから!」

 それでなくとも可愛い物好きなあの男のことだ…こんな紅顔の美少年(笑)が雪うさぎを自分に捧げてきた日には、微笑みを隠しきることなど出来よう筈もないだろう。

「に…にやけ……?彼が…ですか?」

「うん、にやける。保証する!」

 

 リィィィ………ン………

 ゴォォォ…………ン……

 

 

 こくこくと有利が頷いていると、不意に…重厚な鐘の音が夜の静寂(しじま)を震わせ始めた。

「わ…何?」  

「年渡りの鐘です…一年の終わりと始めを繋ぐ、聖なる鐘…。血盟城の大時計が零時を告げると同時に、連動した仕掛けによって風の要素が活性化し、勢いよく大鐘を鳴らすのです」

「へえぇ…凄いや……吃驚するくらい大きな音なのに、ちっとも煩いって感じしない…それどころか、凄く心に染みる音だね……」

 風の要素が運ぶ音は天空を渡り、木々を…大地を包み込むようであった。

「シブヤ、この鐘の約束事をご存じですか?」

「何?百八つの煩悩を清めてくれるとか?」

「いえ…煩悩はどうにもなりません。寧ろ煩悩まみれの約束事なので恐縮なのですが…この鐘が鳴っている間は、好きな相手にキスをすることが許されるのです」

「ああ、聞いた聞いた!そーいや、そういう習慣があるんだってね!」

 正直、ギュンターの傍にいないことに感謝をしてしまう有利であった。

「その…」

 コンラートは何事か察して欲しいとでも言いたげに眦を紅色に染め、伏し目がちになるのだが…生来、こういう話題には鈍いタチである有利はさっぱりコンラートの意図が読めない。

 頭を精一杯捻って出した答もろくなものではなかった。

「あ…そっか……っ!ご、ゴメンね!俺なんか助けてたから…好きな人のところに行くつもりだったのに時間取られちゃったのかな?」

『考えてもみりゃー、こんな寒い夜に一人で中庭にいるなんて、好きな人としけ込む以外の目的、考えられないよなぁ…』

 そう察した途端…有利の胸をつきりと刺すものがあった。

『なんか…やだな……』

 コンラートは、有利の所有物ではない。

 ましてや、有利のことなど知らない過去のコンラートに制限を掛けるような権利などない。

 だが…どうしてだか胸の奥がむかむかしてくるものだから…有利は空腹による胃酸過多を疑ったりした。

「そうではなくて…」

 鐘が、8つ目の響きを立てると…コンラートは少し焦ったように有利の肩を掴んだ。

「俺は…あなたに、キスをしたいんです……」

「…………へ?」

 素っ頓狂な声と表情で、有利はぽかんとしてしまう。

『キス?誰が…誰に?』

 コンラートが…有利に。

 キスを…したいと言う。  

 唇を重ね合う二人の映像を思い浮かべた途端…有利の頬がぼんっと音をたてんばかりに真っ赤に染まった。

「キキキキキキ…き、キスっ!?」

「やはり…駄目、ですか?」

 悲しみを浮かべた琥珀色の瞳は…コンラートの申し出が有利の反応を見るための揶揄いなどではなく、心の底から沸き上がってきた切ない願いなのだと教えてくれた。

「えと…ぇ…と、その……お、俺…キスって……初めてなんだ……」

「ファーストキス…ですか?それは…余計に俺などではいけませんね」

 

 コンラートは、笑っていた。

 

 けれど…その笑みは本心をそっと奥底にしまい込んでしまう仮面のような微笑みで、そんなものを被られた日には…有利に選択肢など無かった。

 

 鐘が、最後の…12番目の音を響かせた瞬間…。

 有利の唇は…コンラートのそれに押しつけられた。

 

 合わせるだけの不器用なキスは、それでも有利の脳を沸騰させるのには十分で…耳朶まで真っ赤に染めて、ふるふると閉じた睫を震わせてしまう。

『ぅ…きゅぅぅ………コンラッドの方は、きっと慣れたものなんだろうけど……』

『俺はいっぱいいっぱいだよぉ……っ』

 そう思いつつ…ドキドキしながら薄目を開いてみたら…コンラートが自分と同じくらい緊張して…そして、泣きそうなくらい感極まった瞳をしているのに気付いて、有利は声を失った。

 ゆっくりと唇が離れていくと、微かに濡れた唇から…急激に熱が奪われていく。

 それが、酷く寂しく感じられた。

 触れ合い、分け合った熱が…離れた瞬間から懐かしく感じられてしまう。

「…ありがとう…ございます……」

「お…お粗末様です……」

 しどろもどろに返答すれば、そっと両頬を包み込む掌…。

『流石にまだ手は小さいんだ…』

 それでも、既に覚えのある箇所には剣ダコができはじめていて…やっぱりこの少年はコンラートなのだと思うと笑みが浮かんできた。

 

 唇が…今度はコンラートの方から寄せられてくる。

 

 けれど、その動きは急に止まってしまった。

「何…?」

「…え?」

 コンラートの声と視線に促されるように我が身を見た有利は、自分を縁取る皮膚縁が…淡い銀色に霞んでいることに気付いた。

「わ…ぁ……」

 吸い込まれるような感覚を覚えて空を掻けば、コンラートが必死の形相でその手を掴んでくれる。

 けれど…掴んだその手の感触は、急速に失われつつあった。

「シブヤ…シブヤ……っ!」

 悲痛に呼びかける声さえもが…次第に薄れ…遠くなっていく。

『俺…元の世界に引っ張られてる?』

 強い誘因力に抗しながら…有利は喉を奮い、精一杯の声で叫んだ。

「会えるから…絶対、俺達…また会えるから…っ!」

「シブヤ……っ」

「だから…絶対、その日まで…待ってて…俺のこと、忘れないでねっ!!」

 

「お待ちしています…お待ちしています………シブヤっ!!」

 

 遠く遠く…掠れていくその声は、

 貫くように甘く…  

  劈(つんざ)くように…切なかった。

 

*  *  *

 

 ふ…わ…っと浮き上がるような…放り出されるような感触と共に、有利は宙空に忽然と出現した。

『…て、やっぱここからなのか!?』

 バルコニーから落下するその瞬間に引き戻された有利は、身を固く引き縮めたが…その身体は先程と同様、大地に叩きつけられることはなかった。

 今度は逞しい両腕が余裕を持って有利を受け止め、それに留まらず…胸の中に抱え込んでしまった。

 そこに有利が落ちて来るであろう事を予測していたとしか思えないその行動…そして、落下の衝撃を事も無げにいなしてしまうその膂力…。

 顔など見なくても、すぐに彼が誰なのか分かる。

「コン…ラッド……」

「お待ちしてました…ユーリ……いいえ」

 切ない吐息が…有利の肩口に沁みる。

「シブヤ…」

 有利の脳内でほにゃりと情報が錯綜する。 

「えと…コンラッド……い、いつからあん時の俺が俺だって分かってたの?」

「ショーマの名字を聞いたときから、薄々予感はしていましたが…。赤ん坊のあなたを見たとき、全身を貫かれるような衝撃を感じましたよ」

「ふひゃ…っ、は…早いよっ!」

 それから16年に渡って、今日この日まで片鱗もそんな事を伺わせたことなどないこの男は、やはり一筋縄ではいかない男だ。

「それまではずっと…あなたのことを眞魔国の中で捜していました。けれど、どんなに調べても黒髪で赤目の少年の情報などなく、あれは一夜の幻だったのではないかと疑ったこともありました」

 それはそうだろう。

 双黒はもとより、黒髪黒目とてこの国ではとても希少らしいから。

「ですから、初めて眞魔国でお会いしたとき、あなたに《どこかで会ったことがある?》と問われたときにはとても動揺しましたよ」

「マジで?だったら言ってくれたら良かったのにぃ…」

「言ってしまったら…歯止めが利かなくなるかな…と、思って…」

『何に?』

 …とは、流石の有利も聞けなかった。

 コンラートの眼差しが甘い色合いを含んでいて…闇の中で艶やかに光っていたからだ。

「ぇと…そ、それは…そのぅ……」

「あなたが否と言えば…触れません。夜が明ければ、これまで通りの名付け親に戻りましょう。ですが…もし、あなたが俺の思いを受け入れて下さると仰るのなら…」

 有利はまじまじと目の前の男を見る。

 すらりとした白い法衣には銀と琥珀の飾り石が配され、その均整のとれた長身を際だたせる。

 軍人を生業としていた割には隆々と筋骨が盛り上がっているわけではなく、寧ろしなやかと表現しても良い身体…しかし、その身がひとたび戦闘となれば鋭い剣となることも…ひとたび護りに入れば堅固な盾となることも、有利は知っている。

 優しくて…でも、常になにかを秘している男。

 一番近くて、一番遠くにいるような…謎めいた男。


 そして一番謎だったのは…彼に対する自分の気持ちだった。

 慕わしいし、憧れてもいる。

 面白いと思うし、時々…ちょっと恥ずかしいとも思う。

 けれど…そんな言葉では表現出来ない何かを、ずっと前から彼に対して抱いていた。

 

 その気持ちに…今夜なら、名前をつけられるような気がする。

 

 リィィィ………ン………

 ゴォォォ…………ン……

 

 先程も聞いたあの鐘の音が大気を震わせ始めると、大広間の方からも布擦れやざわめきの声が大きくなる。

 皆、愛しい人の傍へと駆け寄っているのだろう。

 今ここで佇んでいる、有利達と同様に…。

 

「キスを…しても良いですか?」

 

 物慣れたような男だのに…そう口にする瞬間だけは、あの日に戻ったような少年の瞳で…ときめきを浮かべた眼差しで有利を見る。

 有利は震える指先で自分の唇を辿ると…

 

 …ゆっくりと、頷いた。

 

*  *  *

 

「…ん?」

 グウェンダルは大広間に戻って来た王と弟に、眉の端をぴくりと跳ね上げた。

 コンラートの大きな掌が、小さな王の手をきゅっ…と握りしめていたからだ。

 グウェンダルの視線に照れたように微笑んだものの、弟はその手を離す気はないらしく、さりげなく法衣の袖を被せ、互いの距離を狭めることで誤魔化そうとしていた。

 …その結果、二人の間にはより桃色の空気が漂うことになるわけだが…。 

 外聞を気にして窘めようとしたグウェンダルだったが…その眼差しは、目に入ったあるもののせいで思わず和んでしまう。

「雪のうさぎか……」

 コンラートが片手に持っていたもの…それは、あの日有利がコンラートに贈った雪うさぎであった。

 ほの赤く染まった掌の中、少し溶けかけの不格好な雪うさぎ。

 それでも…不器用な手の作り出した物だからこその微笑ましい温もりに包まれて、それはどんな細工物よりも愛らしく見える。

「昔…唐突にお前が寄越したことがあったな…」

「覚えてたの?」

 何故か有利の方が弟よりも驚いた顔をしてみせるので、グウェンダルは面はゆそうに唇を引き締めた。

 だが…そんな強面もそう長くは続かなかった。

「忘れるわけがない…」

 想起する思い出に、知らず…微笑みは浮かんでくる。

 忘れるはずがない。

 どう接して良いのか分からず、距離感を掴み損ねて関係が隔絶していた次男と、初めて心の一端が触れあった日だ。

 

 

『どうぞ』

 コンラートの方も珍しく緊張した面持ちで居たものだから、グウェンダルの方も自然と緊張してしまった。

 贈り物があると言われ、一体何を贈ってくるのかと思ったら…この小さな雪うさぎが捧げられたのである。

 意図を掴み損ねてへんてこな顔をしてしまったことを、昨日のことのように覚えている。

 それでも…弟がそれを、真心を込めて自分にくれようとしていることはよく分かったし…そもそも、グウェンダルは如何ともしがたく可愛い物好きであったので、そんな贈り物を拒めるはずもなかった。

『…ありがとう』

 贈る言葉同様…礼の言葉は、とても無骨なものであったけれど…やはり気持ちだけは通じたのか、弟は、とても綺麗な笑顔を浮かべたのだった。

 

 

「懐かしいな…」

「ええ」

 オペラ座の怪人のような姿の長男と、聖職者のような姿の次男とは、仕えるべき王を挟んで微笑みあった。

 

*  *  *

 

「えへへ…グウェン、喜んでたね」

「ええ…あなたのおかげです。今も…昔も」

 宴がひけた後…有利はコンラートに招かれて、彼の部屋に向かっていた。

 法衣の袖口に隠された二人の手は、しっかりと握り締められている。

「そんなこと無いよぉ…グウェンダルは良い兄ちゃんだもん。俺が別になにもしなくたって、そのうち仲良くできたんじゃねぇ?」

「ふふ…そういうものでもないんですよ。幾らお互いに思いあっているとしても、何かきっかけがないと関係というものは発展しないものですよ?俺とユーリだって…そうでしょ?」

 近くに長い間いると言うだけでは発展しなかったものが、あるきっかけを境にどっと進展する…。

 二人にそのきっかけをくれたのは、古い年と新たな年とが交差する…午前零時の奇跡であった。

「そして…そのきっかけを無駄にせず、関係を築いていくのは…今度はその当事者のやりよう次第です」

「そ…だね……」

 耳元で甘く囁かれれば、有利の首筋はぽぅ…と紅色に染められる。

 《関係》とやらを一体何処まで建設予定なのか測りかねるが…コンラートの誘いかけに含まれる淫靡な響きが、《二人でぽかぽかの飲み物を飲んだあと、お風呂で背中を流しっこして、ふくふくのお布団にくるまって仲良く眠る》ということ以上を求められているようでドキドキしたからだ。

「ユーリ…俺の部屋に、本当に泊まりますか?それとも…居室に戻られますか?」

 選択枝を残しながらも、コンラートの手は微かに握る力を強くする。

 有利はそっと瞼を伏せると…幾ばくかの沈黙の後に、ぽすっとコンラートの胸板に飛び込んでいった。

「無駄にしたら…駄目だと思う」

 愛しい人の背に腕を回して…精一杯の力で抱きしめながら、有利は呟く。

 

『だって、奇蹟をただの偶然にしてしまうなんて…とっても勿体ない話だからね』 

 

 

おしまい

 

 クマ様のリクエストで、大晦日に眞魔国で小話でユーリ白、コンラッド白〜灰色、甘々にお送りする一夜の奇跡話でした。

 頼まれもしないのにグウェンダルが出張っております…。

 お気に召していただけば幸いです。