「悪夢」
渋谷有利…それは、アラン・ディアボロ・ミッシリーニが《飼う》目的で狙った獲物の筈だった。《選ばれた存在》であるアランには、それが許されると…当時は信じ切っていたのだ。
しかし、超常的な現象によって精神を破壊されかねないほどの幻覚を見せつけられたアランは、村田健の助言…《君が悪行を悔い改めない限り、その映像は消えないよ?》との言葉に従うしかなかった。そうしなければ、おそらく気が触れていたことだろう。幻覚は押し殺そうとすればするほどに、威力を増していたのだから。
有利への妄想を意図的に押さえ、ヴァラオークションの勢力を削ぐことに力を尽くした後には、当初のような幻覚を見ることはなくなっていた。
いつしか、ごく普通の男(ゲイ)のような恋を夢見るようにもなっていた。
だが、アランの地獄はまさにそこから始まったのだった。
* * *
「ぅ…ぁああ゛っ!!」
バネ仕掛けの人形のように飛び起きた身体は、今日も汗でぐっしょりと濡れていた。それというのも、ここ数週間というものの同じ《悪夢》に苛まされているからだ。とはいえ、それは有利を狙った後に、謎の黒い鈴によって与えられた物とは種別を異にしていた。以前見せられた悪夢は、おぞましい獣に生きながらにして臓腑を喰われたり、木にくくりつけられて、通りすがりの他人に嘲笑われながら、幾度も鋸で引かれるというものだった。しかし…それはまだまだ耐えられる夢だったことに、今になって気付く。
今…彼は愛し始めた人が、残酷な方法で傷つけられるという悪夢を見続けている。
浚われて、暴力と粗悪な媚薬によって肉体と精神を狂わされ、複数の男の前で獣のように這い蹲り、愛撫を請う姿。
華奢な身体にはあまりにも負荷の大きい性具を使われ、拘束されて焦らされる姿。
首輪を付けられて…ああ、これ以上は思い出したくない…っ!
『全部、私がやってきたことだ…っ!』
愛おしい人に当てはめた時、それがどれほど無惨で、許し難い行為であったか気付いてしまった。
勿論、過去の罪状を悔いて、被害を与えてしまった人々に物理的な謝罪はして回ったし、土下座して許しも請うた。
けれど…そんなものでは償うことなど出来ないと、アランは今頃になって気付いたのだった。
壊れた玩具をゴミ箱に捨てるように、アランは興味を失った人々を放り出していった。けれど、その人達の人生はそこからもまだ続いていき、傷つけられた心が完全に蘇ることなど不可能であったのだ。
アランは、それだけの不可逆的な傷を与えてきたのだから…。
二度と許されることなどない。
幸せになる権利などない。
全てを諦めて尚、アランは精神を蝕まれ続けていた。
愛し始めた人が幸せな結婚をするに際して、自分を殺して祝福をしてすら、その苦痛が消えることはなかった。
そんな日々の中、時折…アランは思い出す。
『一度で良い。ホントに好きだと思ったものを、心を込めて大事にしてみなよ。そしたら…きっと、次々に色んなモノなんか欲しくなくなるから』
それは、渋谷有利の言葉だった。
耳にした当時は、《安っぽい正義》…《使い古された常套句》としか感じなかった言葉が、今は身に染みて思い返される。
苦しい。
毎日がとても苦しい。
けれど…同時に、今までには無かった心の動きもあるのだ。
『私は、今度こそ本当に人を愛したのだろうか?』
返して貰うことは出来なかったけれど、自分の欲望を抑えて愛する人を祝福することは出来た。
過去の罪状は消えず、毎日後悔と悪夢に苛まされ続けるのだとしても…気が付けば、かつてのように次から次へと何かを欲して、餓鬼のように欲望の触手を伸ばして誰かを引き裂くことはなくなった。
『ユーリに、会いたい…』
今のアランを見て、有利はなんと言うだろうか?
今は有利の姿を思い浮かべてもかつてのような悪夢が浮かぶことはなく、代わりに描かれるのはコンラートに向けていた柔らかな笑顔だった。
彼が《変わったね!》と言ってくれたら、少しは救われるのではないか。
あるいは、それも幻想であるのかも知れないけれど。
アランは幾らかの迷いの後、引き出しから便せんを取りだして万年筆を走らせた。
《会いに行っても良いでしょうか?》…これまでのアランからしたら、とても信じられないような文章を綴って、くすりと苦笑が漏れた。
我ながら、大きすぎる差異が可笑しかったのだ。
投函するまで、また悩むかも知れないけれど…それでも、いつか彼に出そう。
ほんの少しでも、過去の所行に対する贖罪が出来たと思った時に、いつか彼に出そう…。
アランは丁寧にしたためた手紙に蜜蝋を垂らして押印をし、じぃ…っと見つめながら、少しだけ微笑んだ。
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