「百八つの煩悩」




「おばんでーす」
「いらっしゃーいっ!」

 大掃除を終え、 お正月のご馳走…おせちやお雑煮の準備も終わったところで、茶うさぎと黒うさぎは村田と橙うさぎを迎え入れました。
茶うさぎからすれば、ほっと一息ついたところで黒うさぎとゆっくりしたいところだったのですが、来てしまったものは仕方ありません。

「そんな顔するもんじゃないよ、ウェラー卿。折角年越し蕎麦も用意したんだからね」
「はぁ…」

 村田が人差し指を突きつけるようにして微笑みますが、蕎麦と出汁、揚げ物の用意をしてきたのも…これから調理するのも全て橙うさぎのお仕事です。
 ですが、橙うさぎの方は喜色満面でてきぱきと年越し蕎麦の準備をしています。

「さぁ〜あ、後はグリエちゃんにお・ま・か・せ!腕によりを掛けて打った蕎麦と、特選素材で作り上げたお汁の味を楽しんでねぇんっ!」
「気色悪い。止めろ」

 村田に対しては遠慮があるものの、橙うさぎに対しては欠片ほどの遠慮も持たない茶うさぎがいっそ清々しいほどの切り口で、しなを作る橙うさぎを言葉の槍で一突きします。
 けれど、橙うさぎはそんな仕打ちには慣れているものですから、大して気にした風も無く割烹着を着込みます。

「あ…俺、手伝うよっ!」

 黒うさぎはぴょこんと座椅子から身体を起こすと、軽いフットワークでとたた…っと箪笥を開け、小さな割烹着を取り出して着込みました。

『主婦の戦闘服よ』

 そう言って、母さんうさぎが持たせてくれたものです。
 2着あるうちの1着は大掃除の時にすっかり汚れてしまったのですが、お正月にお雑煮を注ぐときに着ようと、可愛い二羽のうさぎアップリケ(当然、黒と茶)のついた方をとっておいたのです。

「あらぁ…坊ちゃんたら、ちっちゃな割烹着がかーわーいーいーっ!それに、俺とお揃いみたーい」

 そう言った途端…橙うさぎの割烹着がまっぷたつに切り裂かれました。
 下に着ている服には一筋の痕もないその切り口は嫌みなまでに見事で(単に橙うさぎの裸を見たくないだけかも知れませんが)、その手慣れた刃捌きを見せた者はと言うと…。
 勿論、嫉妬深いことマリアナ海溝の如し…な、茶うさぎでありました。

「すまない…手が滑ったようだ」
「ちょ…あ…あんたっ!!」

 爽やかな笑顔を浮かべた茶うさぎの手にはよく研がれた出刃包丁が光っています。
 流石の橙うさぎも、これには顔色を変えました。

「代わりにこれでも着ていろ」

 手渡されたのは茶うさぎのエプロンでした。
 しかし…これには黒うさぎの方がしょんぼりします。

「いいなぁ…ヨザック……。コンラッドのエプロンするの?俺もコンラッドのが良い…」
「そうですか?ユーリがそう言うのなら、これはユーリに着て貰いましょう」
「いいの?あ…でも……それじゃあヨザックの服が汚れちゃうかも…」
「ヨザックにはこれでも着せておきましょう」

 そう言って茶うさぎが取り出したのは…一体何処で手に入れたものなのでしょう?薄緑色のつなぎ作業服でした。
 色気も愛らしさも欠片もありません。
 ですが、橙うさぎに選択の余地などありません。

「これで良いな?ヨザック」
「ハイ…」

 拒否しようのない…押し出し満点な笑みを浮かべて、元上司がぐいぐい手元に押しつけてくるからです。  

*  *  *



 そうこうする間に夜は更け、四羽は橙うさぎの用意した年越し蕎麦に舌鼓を打ちました。
「誰にでも特技というものはあるものだな…なかなか旨いよ、ヨザック」
「本当!凄っく美味しいよ」
「まあ、素人にしてはなかなかのものだね」
 みんなに…特に、大好きな村田に褒められた橙うさぎはにこにこ顔になりました。

 ゴィィィィ…………ン 
 ゴィィィィ…………ン

「…あれ?こんな夜中に何の音ですか?」

 茶うさぎが不思議そうに首を傾げると、村田がやれやれといった風に教えてくれました。

「あれは君達のためにあるような鐘だよ」
「俺達…というと、俺とユーリですか?祝福の鐘か何かですか?」
「なんでそんなカテゴライズかな…。君達と言ったら、君とヨザックのことだよ」

 素で黒うさぎとカップリングにさせる茶うさぎに、村田は呆れかえったように肩を竦めました。

「あれはね…《除夜の鐘》と言って、大晦日から新年に掛けて108回打ち鳴らされるんだ。この108という数の由来については諸説あるんだけど、定説となっているのはそれがうさぎの煩悩の数を表す…てことなのさ。だから、年内に堪りに堪った煩悩を払う目的で打たれるこの鐘を、君達はしっかりと聞いておく必要があると思うね」
「ボンノウって何?」

 不思議な言葉に、黒うさぎが首を傾げます。

「身心を悩まし苦しめ、煩わせ、けがす精神作用のことだよ。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)は根元的な煩悩として三毒と呼ばれていてね。特に、君の夫やヨザックは貪淫(とんいん)の気が懸念されるところだね…。渋谷…君も油断してたら成兎するまでに身を汚されてしまうから、十分貞操には気をつけるんだよ?」
「毛が…?怪我…?」

 村田の言うことは時々難しすぎてよく分かりません。
 黒うさぎは困ったように小首を傾げると、助けを求めるように茶うさぎを見つめました。
 その黒曜石の眼差しはうるる…と艶を帯びた上目づかいで…ついつい茶うさぎの喉はごきゅりと上下してしまいます。

「全く…セックスされちゃうってことだよ、渋谷」

 あけすけな言い方をされると、流石の黒うさぎにも意味が分かります。
 お蕎麦を入れた大椀に顔をつけんばかりにして俯いた黒うさぎは、うさ耳の内側も、顔の両側にぴこっとひっついた貝殻状の耳も、面白いくらいに真っ赤です。

「猊下…っ!ユーリにそんな…」
「言われたくなかったら、君がしっかりしててよね。僕は君が渋谷と夫婦になることは許したけど、渋谷の真っ当な成長を阻害するような真似をしたら恐ろしい目に遭わせるからね?覚悟しておいてよ?」
「勿論、分かっています!」

 茶うさぎは鳴り響く除夜の鐘に耳を澄ませました。
 この音を聞いて煩悩が晴れるというならば、是非とも聞いておきたいものです。
 
けれど…殷々と夜の静寂に響いていく音の中に、ぽそ…と小さな愛らしい声が混じります。

「でも…俺……コンラッドにだったら…セックス、して欲しい……」

 もにもにと口の中で消えていくその言葉は本当に小さな小さなものだったのですが…耳聡い…それも、黒うさぎの声にはデビルマン並みの地獄耳をみせる茶うさぎが聞き逃すはずもありません。

「……………っっっ!!」

 どぅ…っと沸き上がる血潮で首まで真っ赤に染めた茶うさぎを、やれやれ…とでも言いたげに村田が見ています。

『やっぱりねぇ…煩悩なんて、消えていく端から沸き上がってくるもんだよね』

 それも、煩悩の対象者自ら誘いかけてくるのですから、タチが悪いことこの上ないというものです。
  
『ま…せいぜい頑張っておくれよ?』

 茶うさぎの理性があと何年もつものか、村田は心配しながらも見守っていこう…と、改めて心に誓いました。

 自分の尻をなで回す大きな掌を、遠慮容赦ない箸捌きで突き刺しながら…。


* 煩悩滅却という言葉より、狸山は煩悩即菩提とか、変毒異薬と言う言葉が好きデス *


「あけましておめでとう!」




 冷たいけれど、清々しい大気が地球森に新たな年の訪れを知らせてくれます。

「んー…」

 暖かいお布団から出てきたものの、まだ寝ぼけ眼な黒うさぎは、お耳をひこひこさせて眠気を払おうとしました。

「あけましておめでとうございます」

 伸びやかな優しい声が、すぐ傍らでお正月の挨拶を伝えてくると、一気に眠気が吹き飛んでいきました。

「あけましておめでとう、コンラッド!」

 起き抜けにも爽やかな様子を失わない茶うさぎに、黒うさぎは慌てて寝涎を拭きました。

「さあ、朝風呂に入ってしゃっきりしたら、おせちとお雑煮を食べましょう」
「うん!」

 柚子を入れた朝風呂は何だかとっても贅沢な気分にさせてくれます。
 二羽はのびのびと湯船に身体を沈めると、柚子の香りと暖かなお湯を堪能しました。
 そしてお風呂から上がると紋付きの羽織り袴に着替えて、端然と並べられたおせち料理とお雑煮の前で居住まいを正しました。

「それでは改めて…」
「あけましておめでとうございます!」

 ぺこりと頭を下げ合って、割箸をぱちんと割ったときです。ちりり〜んとドアベルが良い音を立てました。

「はーい、どちら様…わぁっ!」

 勢いよくドアを開けた黒うさぎは、突然目の前に現れた唐獅子に吃驚してしまいました。

「あけましておめでとうございマース、坊ちゃん、隊長、今年もよろしく〜」
 
 癖のある軽やかな声で挨拶してきたのは、聞き覚えのある声でした。

「ヨザック!どーしたのその格好?」
「獅子舞ですよーう。この森の伝統行事らしいっすね。猊下にやってこいって頼まれたんですよ」

 橙うさぎは器用に唐獅子の顎を動かすと、かちかちと大きなお口を開閉させて踊ります。

「この口に噛まれると、賢くなるそうですよ?」
「ええ!?」

 相手が橙うさぎだと分かっていても唐獅子の口は大きく、ばっくりと割れた口元が如何にも恐ろしそうです。
 黒うさぎは賢くなりたいのは山々なのですが…恐ろしさに胸をばくばく言わせました。

「お前の動かす獅子に噛まれて何処までの知恵が期待出来ると言うんだ…」
「やだ、隊長たら新春からつーめーたーい〜!」
「ユーリ、こんな獅子に噛まれる必要はありません。とっとと帰って貰いましょう」
「でも…俺、賢くなりたい……」

 茶うさぎの後ろに隠れて言うことでもありませんが、黒うさぎは尻尾を縮こまらせながら訴えました。

「ですが…ヨザの唐獅子に噛まれたりしたら、アホになるかも知れませんよ?」 
「失れ〜い……」
「あ…それなら、コンラッドに噛んで貰ったらいいのかな?コンラッドはルッテンベルクの獅子なんだろ?」
「俺…ですか?」
「うん、噛んで?」

 黒うさぎは茶うさぎに向かって、小さな頭を捧げました。

「………そ、それでは……」

 かぷ…
 茶うさぎが黒うさぎの頭を優しく噛む様子を見守りながら、橙うさぎは思いました。

『隊長に噛まれたりしたら、むっつりスケベ度が上がるだけだと思うんだけどなぁ…』

 けれど、橙うさぎは元上司に言われるほどにはアホではなく、うさぎによっては《賢い獣》と表現される雄でしたから、懸命にもその言葉を飲み込むのでした。

 なにはともあれ、あけましておめでとうございます。

* みなさま明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします *