「雨の晴れ間に」
「ん…ぅ、んん?」 黒うさぎは雨戸の隙間から差し込む陽光に気づくと、眠気を吹き飛ばしてぴょーんっとベッドから飛び降りて駆け出しました。 ガラリ… ゴトン! 重い雨戸を開くと、ごう…と吹き込んできた強い風が濡れた土のにおいを運んできましたが、それは昨日までのじめじめとしたものではありませんでした。 多分に湿気を含んではいるものの、どこか荒々しい熱を孕んだ…勢いのある風でした。 あたりを見やれば、土壌の表面に残る水たまりも青空や緑濃い若葉を映しこんで、ぎらり…ぎらぎらっと陽光を弾いています。 きっと、いくらもしない内に蒸発してしまうことでしょう。 「やった…晴れたよコンラッドっ!」 ちいさな黒うさぎの歓声が朝の大気に響きます。 「これだけ晴れてたら、お昼までは大丈夫だよね!?やったぁ!自転車の練習が出来るねっ!」 「ええ、頑張りましょうね」 ちいさな黒うさぎが楽しそうににこにこ顔で言うと、大きな茶色のうさぎもにこにこ顔で答えます。 ですが…黒うさぎは茶うさぎの気持ちにとても敏感なうさぎなのです。 すぐにそれがほんとうの《にこにこ顔》ではないことに気づきました。 「なぁ…コンラッド、なにか心配事でもあるの?」 「いいえ…そんなことはありませんよ?」 「嘘ばっかり!目のきらきらが曇ってるよ?」 茶うさぎのもつ琥珀色の瞳は、普段はそりゃあ綺麗な色をしております。 とても嬉しいときなどは特に色が鮮やかになって、とびきり美味しい蜂蜜みたいに芳醇な色合いを湛えて、銀色の光彩を瞬かせるのです。 ところが…いまの茶うさぎの瞳ときたら、どんよりとくすんだ梅雨空のようです。 きっと、なにか心晴れないことがあるに違いありません。 そしてその理由にも、黒うさぎは心当たりがありました。 「また心配してんの?自転車で転んだくらいで死んじゃううさぎなんていないよ?…多分」 「ええ…我ながら心配性だとは思うのですが……」 茶うさぎの方にも自覚があるのか、ほんのりと頬を染めてはにかんでおります。 そんな顔をすると、歴戦の勇者も乙女のように見えるから不思議なものです(少々ごつい乙女ですが…)。 自分のことなら腕の一本や二本持って行かれても、顔色変えずに闘うことの出来る茶うさぎでしたが、こと、彼の名付け仔のこととなると自分でも可笑しいと思うくらいに心配になってしまうのです。 特に自転車の練習は、この前に晴空が広がった日に黒うさぎが藪につっこんでしまい、膝っこぞうをしこたまぶつけたものですから、茶うさぎは心配でなりません。 「ねぇ…ユーリ。晴れたは晴れたけれど、まだ土は濡れて、足下はぬかるんでいますよ?もう少し土が乾いてからの方がかいいのでは?」 「やだよ!今度はいつ晴れるかわかんないもん。このまんま練習できなかったら、俺だけ7月のサイクリングに行けないんだぜ?」 「そう…ですね」 茶うさぎの返答はどこか漫(そぞ)ろなものでした。 《梅雨が明けたらみんなでサイクリングに行こう》…この約束が、茶うさぎとの約束であればどんなに嬉しかったことでしょう! ですが、学校に行き始めてからおともだちの増えた黒うさぎは、村田やその他の仔うさぎたちと一緒に、《ともだちだけ》で出かけてしまうのです。 ええ…茶うさぎは置いていかれてしまうのです! それもあって、危険な上に行動範囲が広がってしまう自転車というものに、茶うさぎは渋い顔を見せるのでした。 「とにかく、やるったらやるの!」 こうと決めたら頑固なところがある黒うさぎは、仁王立ちになって宣言しました。 * * * 「勢いがついたら離してね!」 「はい……」 真っ青な自転車は比較的小さなものでしたが、それでもちょこりと乗っかった黒うさぎの大きさを思えば、茶うさぎには如何にも強固で危険な鉄のかたまりに見えます。 また勢いよく藪につっこんだりしたら… いやいや、もっと酷いことにはカーブを曲がりきれずに崖から落ちたりしたら… おそろしい空想がぐるぐると頭の中を駆けめぐり、茶うさぎの胸はどきどきと拍動します。 けれど、黒うさぎは言います。 「いいよ、離して…っ!」 ぐん…っと風を切り、青い自転車が加速したのが分かりました。 茶うさぎが丁度良いタイミングで手を離してくれると信じている黒うさぎは、決して振り返りません。 だから…茶うさぎは手を離しました。 引き裂かれそうな胸をぐっと押さえ込んで、ぽぅん…と軽く勢いをつけて、送り出してやりました。 手に触れていた鉄の固さが失われると、掌に残されたのは微かな皮膚感覚の名残と…さみしさでした。 『ああ…こうやって、ひとつひとつユーリは大きくなっていくんだ』 当たり前のことです。 親ならば、誰だって経験するさみしさです。 それに…茶うさぎは普通の親のように、黒うさぎが大きくなったからといってお嫁さんを貰ったりする心配をしなくても良いのです。 一応、黒うさぎと茶うさぎは結婚を認められた仲ですからね。 それでも、こんな成長のしるしを見せられるとき、茶うさぎの胸に沸いてくるのは強い頼もしさと、微かなさみしさなのでした。 『随分と贅沢になってしまったものだ』 茶うさぎは自嘲の笑みを漏らしました。 …ごう…っ! ふらふらとしていた車体が安定すると、青い自転車はなめらかに道を走り始めました。 「やった…!ほら、曲がったりも出来るよ?」 もともと運動神経の良い黒うさぎのこと、一度こつを掴めばすぐに安定した走りを見せるようになりました。 「気をつけて下さいね。調子に乗りすぎないように!」 「はーい!分かってるって!」 そうは言いながらも、初めて自由に乗りこなす自転車の加速感…頬に受ける風の特別な感じに黒うさぎは夢中なようです。 目をきらきらさせてごうごうと風を抜く黒うさぎは、彼自体が風の精霊であるかのように自由で、闊達なようにみえます。 そんな黒うさぎを見ていれば、結局茶うさぎの頬をゆるんでしまうのでした。 * * * 「あー、楽しかった!」 息を弾ませて黒うさぎが自転車を降りる頃には、空の一番高い位置にお日様は昇り、お昼時となりました。 「良かったですね。これで…いつでもサイクリングにいけますよ」 「うん、俺ね…絶対あの花を持って帰るからね!」 「…花?」 茶うさぎが《なんのことだろう?》と首を傾げると、黒うさぎは《あれれ?》という顔をしました。 「言わなかったっけ?今度サイクリングに行く野原には、ツェリ様があんたのために作った花とよく似た、綺麗な青い花が咲いてるんだよ?だから、俺は絶対自分の力でそれを取りに行くんだ」 黒うさぎのつぶらな瞳は誇らかにひかり輝き、まっすぐに茶うさぎに向かっています。 それは、もうすぐ咲き始める向日葵のように鮮やかな表情でした。 「ユーリ…」 「俺ね、いままでコンラッドにして貰ってばっかりだったろ?だから、これからは俺がいっぱいコンラッドにいろんな事をしてあげたいんだ」 「ユーリはいままでだって、たくさんのものを俺にくれましたよ?」 「でも、それ以上に俺は貰ってたんだもんっ!」 二羽のうさぎは張り合うようにお互いが貰ったもののことを挙げ始めました。 息が切れる程たくさんたくさん挙げて、お互いのほっぺがあかく染まる頃には、二羽の顔には溢れるような笑みが広がっていました。 だってね、お互いがどれだけ相手のことを好きか、いやってほど確認できたんですもの。 * 心配性で焼き餅やきな次男でありました。 * |