『抱きしよう?』 茶うさぎのコンラートと黒うさぎの有利は地球森に住む仲良しのうさぎです。 茶うさぎは《随分昔に大兎(おとな)になりました》という年頃で、黒うさぎは《当分大兎にはなれません》という年頃。 …ということは、幾ら仲良しでも越えられない壁というものがあります。 それは、《お金を稼ぐ》という切実な問題なのでした。 * * * その日の朝、茶うさぎは急いでいました。 茶うさぎにしかできない仕事があって、どうしても早く出かけなくてはならないのです。 ですが、こんな日に限って困ったことが起こりました。 ベッドで目を醒ました黒うさぎが、いつもよりどんよりとした顔つきをしていたのです。 「……頭痛い…」 「ええ!?」 驚いた茶うさぎの顔を見上げると、黒うさぎは《にぱり》と笑って言いました。 「嘘だよ!だって俺、今日はとっても楽しみな事があるんだ。球技大会をやるんだよ?あー、楽しみ楽しみ!」 にこにこ笑って黒うさぎは言いますが、茶うさぎはまだ心配です。 だって、さっきは見たこともないくらいどんよりした顔をしていたのです。 「本当に大丈夫ですか?」 「うん、全然平気!」 黒うさぎは元気よく、ぴょんっとベッドから飛び出します。 茶うさぎは念のため喉が紅くなってないか見たり、おでこを合わせて熱を測りましたが、確かにおかしなところはありません。 「俺はもーちょっとゆっくりしてから学校に行くよ。コンラッドは早く行った方が良いよ?今日は朝早くから急ぎの仕事があるんだろ?」 「ええ…それでは、先に行かせて貰いますね?」 「うん、行ってらっしゃい!」 茶うさぎは後ろ髪引かれる思いで出勤しました。 * * * ちゃんとお仕事はしながらも…茶うさぎはどうしても気になってしょうがありません。 黒うさぎは本当に大丈夫なのでしょうか? でも、苦しいのならどうして言ってくれないのでしょうか? 『そういえば…最近、《抱きしよ?》と言ってくれないなぁ…』 もっともっと黒うさぎが小さかった頃、茶うさぎは今よりもっと貧乏でした。 ちいさな黒うさぎの面倒を見るために、あまり沢山仕事をすることが出来なかったからです。 それでも短い時間とはいえ仕事に行く茶うさぎに、黒うさぎは《さみしいよぅ…》と言いました。そして、忙しくバタバタしている時に限って《抱きしよう?》と、可愛らしく両手を広げてくるのです。 その仕草をされると茶うさぎはどうにも堪らなくなり…決まって欲望に耐えきれず、ぎゅううっと抱き込んで頭を撫で撫でしておりました。 黒うさぎもそうされると、とっても嬉しそうに《抱き〜抱き〜》と声を上げておりました。 ですが…今では随分と黒うさぎも大きくなりましたし、これからは何かと物いりですから、茶うさぎは以前よりもずっと沢山の仕事をするようになりました。 そうなると、どうしても黒うさぎと一緒にいる時間は短くなりますし、一緒にいる時だって黒うさぎだけを見ているわけにはいきません。 茶うさぎ自身がどんなに《丸まんま一日、ユーリとべったり引っ付いていたいなぁ…》と思っても、そうしているわけにはいかないのです。 そういう時期が何年か続いた今、黒うさぎは茶うさぎが忙しそうにしている時に《抱きしよう?》とは言わなくなりました。 それを《寂しいな…》とは想いながらも、色々としなくてはならないことの多い茶うさぎは、自分から《抱きしよう?》と言うことはありませんでした。 『ユーリは…寂しくはないのかな?』 大きくなったから、もうあんな風に甘えたいとは思わなくなったのでしょうか? それとも……。 茶うさぎは急に心配がむくむくと大きくなって、大急ぎで仕事を終わらせると、秋の台風も吃驚するくらいの速度で家に帰ったのでした。 * * * 家に帰ってみると、ソファにころんと黒うさぎが寝ていました。 学校にはちゃんと行ったらしく、制服を着込んで鞄を投げ出しています。 起こさないようにそっと額に手を当ててみましたが、やはり熱などはないようです。 けれど…眉の間には、はっきりとした皺が寄っていました。 「コン…ラッド……」 切なげな声が桜色の唇から漏れ、涙が…ほろりと頬を伝いました。 「ユーリ…っ!?」 一体どうしたのかと慌ててしまい、反射的に肩を掴んだら黒うさぎは吃驚したように目を覚ましました。 どうやら、うとうとと浅い眠りの中にあったようです。 「コンラッド…?」 「ええ、俺です」 「今日は遅いんじゃなかったっけ?」 「ユーリが頭が痛いと言っていたでしょう?ですから…心配になって帰ってきたんです。ねぇユーリ…何か、気がかりなことでもあるのなら言って下さいね?」 黒うさぎは一瞬、目を見開いて何か言おうとしましたが…結局、もにもにと唇を開閉させてからにぱりと笑いました。 「……!」 なんて無理のある微笑みなのでしょうか! そして、ああ…どうして気が付かなかったのでしょう?それは、今日の朝に黒うさぎが浮かべていたのと同じ表情だったのです。 《悩み事があるならどうしてちゃんと言ってくれないんですか?》…危うくそう言いかけた茶うさぎでしたが、《はっ》…と我に返って思いました。 ひょっとして…《言わない》のではなくて、《言えない》のではないでしょうか? だから、少し考えて口にしたのはこういう言葉でした。 「ユーリ、《抱き》しませんか?」 「え…?」 黒うさぎは懐かしい言葉にちょっと吃驚して…それから、おずおずと手を伸ばすと茶うさぎの頚に縋るようにして抱きつきました。 子どもらしい暖かなぬくもりがふくふくと伝わってきます。 髪から漂うお日様と黒うさぎらしい匂いが鼻腔を燻らすと、茶うさぎの心には《ずくん》…っと沸き上がる感情があります。 毎日一緒にいたのに、茶うさぎは黒うさぎの匂いを《懐かしい》と思っているのです。 それは…《懐かしい》と感じてしまうくらい、こうして引っ付いているのが久し振りだということです。 黒うさぎにとっても想いは同じようでした。 すぅ…っと息を吸って、胸一杯に茶うさぎの匂いを溜め込むと…黒うさぎの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていきました。 暫く待ってから茶うさぎが声を掛けます。 「ユーリ…何か、あったの?」 「あのね……」 黒うさぎが口にしたのは、学校で起きた《ちょっとした残念な出来事》のことでした。 ふざけていて友達にぶつかったら、酷く怒られたこと。 大好きなカレーのお代わりが、自分の順番の前で無くなったこと。 授業中に自信を持って答えたのに、それが間違いだったこと…。 ひとつひとつはとても些細なことで、本当に時間をとるほど《大したこと》ではありませんでした。 でも…ずっとずっと、《大したこと》じゃないからと思って溜め込んできた事が、黒うさぎの中でずぅうん…と重みを増していったのでしょう。 今朝は、それが特に強く感じられたのです。 だから、茶うさぎとゆっくりしたくて、ついつい《頭が痛い》と言ってみたのです。 でも、慌ててしまった茶うさぎの姿を見て思い出しました。今日は、忙しい日なのだと言うことを…。 それは、二羽がご飯を食べたり服をきたりするためにはどうしてもやらなくてはならないことなのだと…。 《言えない》…そう思ったから、心配を掛けないように黒うさぎは笑顔を浮かべたのですが、結局一日中元気が戻ることはありませんでした。 「ねぇ…ユーリ、今日から毎日《抱き》をしませんか?そして、二人が別々でいた時に何があったのか、報告し合うんです」 「でも、俺の学校で起こることなんて、そんなに吃驚するようなことじゃないよ?」 「いいえ、俺にとってはユーリの身に起こることは良いことも悪いことも全て大事件ですよ!」 「そ、そう…?」 「そうですとも!」 たとえ時間が少ししかないのだとしても、その時間いっぱいを使って黒うさぎと《一緒にいる》ことが出来ると思うのです。 そういう時間は、どんなに黒うさぎが大きくなっても無くして良いものではないのだと思います。 この夜、二人はしっかりと抱き合って眠りました。 そして眠ってしまうまでの少しの時間…たっぷりとお喋りをして、お互いの存在を自分の中に充填したのでした。 * * * 翌日、出かけようとする茶うさぎに黒うさぎが声を掛けました。 「コンラッド…!」 「なんです?」 黒うさぎは少しだけもじもじして…そして、思い切って上目づかいに茶うさぎを見詰めると、愛らしく両手を広げて言ったのでした。 「抱きしよう?」 「喜んで!」 茶うさぎはきゅうっと黒うさぎを抱きしめながら思いました。 『俺がこの《抱き》に、不健全な欲望を押さえきれなくなるのは何時だろう……』 頑張れ茶うさぎ。 行け行け茶うさぎ! 君が黒うさぎにエッチな事が出来るのは……当分先だ! おしまい あとがき 久方ぶりの黒うさ話です。新婚話はちょっと長めに書くつもりなので長編と白鷺線の後になりますが、ちょっと本日は娘とやりとりしながら思ったことをお話にしてみました。 コンラッドに比べて気が短すぎる私は、実はもっと殺伐としたやりとりをしてからやっと「抱きしよう?」と言ったわけですが……。 でも、思い切って遅刻してみて良かったです。娘が落ち込んでいた理由自体は有利同様ちいさなものでしたが、何故だか先生にも言えなくて落ち込んでいたようでした。先生に連絡帳でお願いしたら、すぐに解決できたようです。 いつも黒うさ話を書く時には、「コンラッドみたいにやさしくなれたらなぁ…。出来てないなぁ…」と、自嘲気味になりますが、今日はちょこっと真似できたような気がしました。気のせいかも知れませんが…。 |