黒うさぎにとって茶うさぎはとても大切な大切な…幾つ大切を重ねて言えばいいのか分からないくらいに大切なうさぎです。 それはもう…寒い雪の日に、暖かな茶うさぎのお腹の上で目覚めたその瞬間から、魂に刻み込まれるようにして、その《大切》という言葉は黒うさぎの心の中の、一番ほっこりした部分に鎮座在(ましま)しているのです。 ですが…最初の内、それは本当に《刷り込まれた》大切さでした。 何しろ他のことは全く覚えていない状況の中で綺麗で優しいお兄さんに微笑みかけられたのですから、他に寄る辺のない仔うさぎが頼りにするのは当然のことでしょう。 もしかしたら、茶うさぎ以外のうさぎにそうされていたとしても、やはりそのうさぎを大切に想い、ほっこりした部分に鎮座させていたかも知れません。 ですが…ある冬の日に訪れたほんの小さな出来事が、その《大切》の意味を変えてしまったのです。 その冬というのは…黒うさぎが6歳の冬のことでした。 年が明け…クリスマスにニューイヤーパーティーと賑やかな行事が一段落した後、眞魔国森には沢山の雪が降りました。 それはもう、毎日扉を開けるときに茶うさぎが力ずくでこじ開け、雪かきしてくれないと、黒うさぎはすっかり雪に埋もれてしまうような有様でした。 そんなある日のこと、突然茶うさぎの具合が悪くなったのでした。 * * * 「コンラッド、お水飲む?何か食べられそう?」 「大丈夫ですよ、ユーリ…水差しにたっぷり水に入れてありますから、ユーリはもう眠ってください」 そうは言いながらも茶うさぎの声は痛々しく掠れ、ようよう出した声のために激しく咳き込んでしまいました。 もう、咳をすること自体が酷く身体に負担なのでしょう。漸く咳が落ち着いたときにはくたりと脱力してしまいました。 いつもは風に靡くライオンのような髪が白い枕の上にぱらりと広がり、汗ばんで上気した頬や、苦しげに眇められた目元が…茶うさぎを年よりも幼く見せています。 いいえ…もしかしたら、いつもがとても気を張っている姿なのかも知れません。 混血と蔑まれ、戦果をあげることで眞魔国森に認められようとしていた頃からずっと…茶うさぎは常に強く、凛々しく在らねばならなかったのです。 そして今も…小さな仔うさぎを養って生きて行かなくてはならない。 それでは一体何時、茶うさぎは息を抜けばいいのでしょう? 一体誰に甘えればいいのでしょう? 『俺に甘えてくれればいいのに…』 黒うさぎの小さな胸が、きゅう…っと痛みます。 『俺…コンラッドを守ってあげたい…!』 それは、黒うさぎが初めて感じる想いでした。 いままでずっと茶うさぎは絶対的な守護者であり、黒うさぎを包み込んでくれるうさぎでした。とても恰好良い…だからこそ、憧れている存在。 ですが…こんなふうに可哀相な姿を見ていると、今までとは違った感情が芽生えてきます。 それがどういうものなのか幼い黒うさぎには明確に理解することは出来ませでしたが、ただ一つ言えることは…どんなに素敵で偉大なうさぎよりも、茶うさぎの方がずっとずっとずっと…《大好き》だと言うことです。 そうです…そうですよ、 『だいすき…』 その言葉が、一番しっくり来ます。 《大切》ということよりもずっとずっとよく分かります。 大切なうさぎは他にも沢山います。 グウェンダルもギーゼラも、ヴォルフラムもギュンターも…他にも色んなうさぎが色んな意味で大切です。 ですが…一番好きだと思うのは、世界でたった一羽のこの…茶うさぎだけなのです。 ぱぁぁ…っと、胸の奥で花弁が芳しいかおりを帯びて開くような…雲間から明るい陽光が差し込むような…頭の中で目まぐるしく小さな燐光が飛び交うような…そんな感激が黒うさぎを包みます。 「コンラッド…ねぇ……コンラッド…っ!」 黒うさぎは早速その発見を茶うさぎに伝えようとしましたが、なんと言うことでしょう…いつもならどんなに眠くても必ず起きて、優しい琥珀色の瞳で見つめてくれる茶うさぎが、目を覚ましません。 「コンラッド…?」 どくん…っと、胸の中で開いていた花が、乱暴な掌で鷲づかみにされるような心地がしました。茶うさぎは…もう目を覚まさないのではないでしょうか? 恐る恐る小さな手を茶うさぎの秀でた額に置けば…そこは焼け付くような熱を帯びていました。 「コンラッド…っ!!」 すぐに頭に浮かんだのは緑うさぎでした。 医学の心得がある彼女なら、きっと茶うさぎを救うことが出来るでしょう。 ですが…家の外はとっぷりと日が暮れて、深い雪が眞魔国中を覆っています。 ぐ…っと唇を噛み、掌を握りしめると…黒うさぎは覚悟を決めました。 今、茶うさぎの救い手を呼ぶことが出来るのは黒うさぎだけなのです。 「コンラッド…絶対に助けてあげるから…っ!」 黒うさぎは意識のない茶うさぎの頬に口吻ると、コートやマフラー…手袋に裏起毛のブーツと、だるまさんになりそうな勢いで完全防備をすると、夜の屋外に飛び出していきました。 新雪に足を取られて転んでも、奥深い木々の向こうから恐ろしい風の音が響いても、黒うさぎは決して泣きませんでした。 泣けばそれだけ時間を取られます、見えにくくなった視界のために何か事故を起こすかも知れません。そうなれば、一体誰が茶うさぎを助けてくれるというのでしょう? 『待ってて…待っててね、コンラッド…っ!』 黒うさぎは雪だるまのような出で立ちで懸命に走り続けました。 * * * 「まぁ…ユーリちゃんっ!」 緑うさぎの家に辿り着いたときには、黒うさぎは文字通り雪だるまそのものと化していました。 緑うさぎは真っ青な顔をして黒うさぎを暖かい部屋に通そうとしましたが、黒うさぎは頭を振って緑うさぎの裾を掴みました。 「ギーゼラ、お願い…っ!コンラッドを助けてっ!!凄い熱で、起きられないんだ…っ!」 「まぁ…っ!それでユーリちゃんが助けに来たの!?」 一瞬…緑うさぎの表情が悪鬼の形相になり、 『使えん雄じゃのぉ…自己管理の一つもできんで何が養育者じゃゴルァ…っ。じゃけぇユーリちゃんはわしに育てさせぇ言うたのによぉ…っ!』 地を這うような声音が響いたような気がしましたが、黒うさぎはきっと風の音だろうと思いました。 だって、こんな優しそうな娘うさぎがそんな恐ろしいことを言うはずがありませんからね。 「コンラートは大丈夫。必ず私が助けてあげます。ですから、ユーリちゃんは私の家で暖かくして休んでいて?」 「でも…っ!」 「ユーリちゃんまで風邪をひいたら、誰がコンラートを看るの?あなたはコンラートの家族でしょう?大切なうさぎを守るためには、自分自身をまず守らなくてはいけないわ」 男前な緑うさぎの言葉は尤もだと思います。 ですが…理屈では説明の出来ない想いが胸に込み上げて、黒うさぎは…黒曜石のような瞳いっぱいに涙を溜めました。 「でも……俺…俺、コンラッドと…一緒にいたいんだ…っ!」 「ユーリちゃん…」 それは、恋をしている者の目でした。 燃え上がる想いになりふり構っていられない…我を忘れたうさぎの目です。 『なんてこと…この仔は、コンラートに恋をしているのだわ』 幼い憧れだけではない、本当の恋をしているから…たとえ相手が緑うさぎであっても、愛しい茶うさぎと二羽きりにしたくないのです。 その辺りはきっと、まだ自覚してはいないのでしょうが…綺麗なだけではない想いに、きっと黒うさぎはこの先苦しんだり悩んだりすることでしょう。 『面倒なことだけど…こればかりは神様だってどうすることも出来ないものだわ』 賢明な緑うさぎはそう判じると、黙って黒うさぎの衣服を脱がせました。 「ギーゼラ…っ!」 「こんなに濡れた服で出たら、本当に風邪を引いてしまうわ。私が小さい頃の服を貸してあげるから、着替えましょ?コンラートの所に行くまで私も医療道具の用意がありますからね、その間にちゃっちゃと着替えるんですよ?」 「分かった!」 こっくりと頷いた黒うさぎは、緑うさぎの取り出した服を急いで着込みました。 そして二羽は連れだって茶うさぎのもとに赴き、一晩をまんじりともせずに看病に費やしました。 * * * 「ユー…リ?」 窓から朝日が差し込む時分になって、うっすらと茶うさぎの瞼が開きました。 いつもは気付かないことでしたが、ふるりと震えるその睫は長く…熱に朧ろう眼差しは光に透かした蜂蜜のように綺麗です。 「コンラッド…」 愛おしさに震える胸を押さえながら屈み込んだ黒うさぎは、泣きました。 大きな瞳からぽろりぽろりと綺麗な雫が溢れて、まろやかな頬を濡らします。 「良かった…目がさめたんだ…。もう、大丈夫なんだね?」 「ユーリ…心配を掛けたんだね。ゴメンね…」 茶うさぎの大きな掌はまだ熱かったですが、それでももとの力強さを幾ばくか取り戻して…黒うさぎの頬を包みました。 「本当に良かったこと…」 うっすらと怒り筋を浮かべた緑うさぎの姿に、心なしか茶うさぎの背筋が震えます。 「ギ…ギーゼラ…何時からここに?」 「いましたよ?ずーっといましたとも。一晩中看病していた私が、あなた…まるっきり視界に入っていませんでしたね?」 「い…いや……っ」 「ユーリちゃんが呼びに来たんですよ。この大雪の夜に、私を呼びに…」 「何だって…?」 茶うさぎはぞっとして背を震わせました。 無事だったから良かったようなものの…こんな小さなうさぎが一羽で外に出て、どれ程怖かったことでしょう、心細かったことでしょう…!その姿を想像するだけで、茶うさぎの胸は張り裂けそうでした。 「ユーリ…ありがとう、俺のために…そんな危険を冒してくれたんですね?ですが、もうこれきりにして下さい。俺は…あなたに何かあったら…耐えられない…っ!」 狂おしい眼差しは一心に黒うさぎを見つめ、父性愛だけではない情念が…焔のように潜んでいることに、緑うさぎは気付きました。 『このド変態が…っ!』 黒うさぎの恋心に気付いたときと、扱いの格差は一万光年を隔てるほどでした。 「コンラッド…でもね、俺だって耐えらんなかったんだ…!俺…あんたがいないトコでいきてたってしょうがないもん。俺…あんたが一番好きなんだ…誰よりも好きなんだ…。だから…だから……っ」 《だからどうなのか》…幼い黒うさぎにはそれ以上言葉にすることが出来ませんでした。 ですから、思いの丈を伝えるために茶うさぎに抱きつくしかなかったのです。 「ユーリ…っ」 こちらもどこまで黒うさぎの想いを理解しているか分からないものの…熱っぽい腕で抱き寄せる茶うさぎの眼差しは、その体温よりも熱いものでした。 こうして…ある雪の日を境に、黒うさぎの想いは今までとは少し違うものへと変わっていったのでした。 * 「ああ、この人のこと好きだな」って感じる瞬間というのは、吃驚するような出来事がなくても訪れたりするもんですが、上手く表現出来なかったので茶うさぎに風邪をひいて貰いました。 * |