「みずたまりのむこう」

※絵本調のお話で、特にどのシリーズと関わりがあると言うこともありません。








 

 さわやかな風がそよぎ、暖かな陽光がぽかぽかと差し込む初夏の頃…眞魔国に住む騎士ウェラー卿コンラートは少し物憂げな顔をしていました。

 物憂げ…とは言いつつも、お兄さんであるフォンヴォルテール卿などに言わせると《あの頃に比べれば格段の差だ》と言われるほど、元気は元気だったのです。

 お兄さんが言う《あの頃》というのは、ほんの数年前にこの国を襲った恐ろしい戦争のことです。

 コンラートは沢山の仲間を失い、彼自身もとても傷ついて…いっときは見ている者の胸までが哀しみに塞がれてしまうほど辛そうな様子をしていました。

 ですが、コンラートが眞王様に呼ばれて何かの用事を済ませた後…彼は見違えるように明るくなり、元気に旅をしたり笑ったりすることが出来るようになったのです。



 ですが…その頃から数年がすぎたこの年、コンラートは少し元気を失っていました。



 

 そんなある日、コンラートは眞王廟からの呼び出しを受けました。

 急いで出向くと、兵装をした女性兵に囲まれるようにして連れて行かれた一室で、言賜巫女であるウルリーケに迎えられました。

「ウェラー卿、眞王陛下より贈り物があります」

「贈り物…ですか?」

 驚くコンラートに手渡されたのは、硝子製の綺麗な水盆でした。

 水盆の底面には水色と青緑が綯い交ぜになった紋様が描かれており、水を満たすと、水面(みなも)に映り込んだ太陽の光がちらちらと瞬き、何とも言えない美しさを呈しています。

「ありがたきことながら…何故、これを俺に下さるのでしょうか?」

「そこには、あなたが求めて止まぬ者が映るでしょう」

「…っ!」

 コンラートは、謎めいたその言葉にはっと息を呑みました。

 コンラートが焦がれるほどに求めて止まぬ者…それは、彼にとって唯一人であったからです。

「ユーリが…ユーリの姿が、映るのですか?地球で、どう過ごしているのか…っ!」

「ええ、ちょうど眞魔国と地球の波長が調和したとき…特に、雨が降っているときには見える確率が高まると眞王陛下は仰られました」

 《ユーリ》…と、コンラートは切なく囁きます。その名前は、彼にとってとても特別なものだったのです。

 愛おしい…コンラートの名付け子!

 最後に見たとき、彼は小さな身体に溢れるような元気を包含した赤子でした。

 今ではどんな姿に成長しているのでしょうか?

 その事がとても気になって、コンラートはこのところ塞ぎ込んでいたのです。

「眞王陛下はユーリ様が王位を継がれるその時まで、地球世界の社会規範の中で健やかにお過ごしできるよう、眞魔国との接触はなるべく避けるべきだとお考えです。ですが…それと同時に、眞王陛下はユーリ様とあなたの絆をも重んじておられます。この水盆を経て、きっとあなたとユーリ様の絆が深まるであろうと仰せです」

 言賜巫女の言葉は神聖な響きを持って、広い石造りの空間に殷々と響きます。その言葉は未来を読み、何事かをコンラートに示唆するようでした。

「声を…掛けたりは出来るのですか?」

「出来ます…ただ、世界の間に生まれた歪みに耐えきれず、水盆が割れてしまうでしょう」

 ウルリーケは何処か労るような…やさしげな眼差しでそう促しました。

 きっと…愛おしい人を見つめながらも…触れることも声を掛けることも出来ないもどかしさを慮んばかっているに違いありません。

 言賜巫女たる彼女の自由はとても大きな制約を受けているので、きっと…乙女としてのウルリーケの心が、コンラートに対してそう言わせているのでしょう。

「さあ、ウェラー卿…。どうぞ愛しい方の姿をご覧なさい」



*  *  *




『ユーリ…っ!』 

血盟城の自室に戻り、水盆に水を湛えると…ユーリの姿が映りました!

 コンラートは思わず飛び出してしまいそうな声を、左手でばふりと塞ぎます。

 みずたまり越しの姿なのでしょうか?可愛い水色の長靴をはいて、赤い傘を嬉しそうにくるくるしている様子が見えます。

『ああ…健やかにお育ちになられて…っ!』

 あどけないその姿に、涙が浮かんできそうです。 

 お母さんに手を引かれて軽やかな笑い声を上げているユーリは、楽しそうにぱしゃぱしゃとみずたまりを踏みつけます。

 その途端、水盆にうつった映像はぶわりと歪み…慌ててコンラートが手を添えても、もう映像を結ぶことはありませんでした。

 コンラートはしょんぼりとしてしまいましたが、それでもこう考えて自分を励ましました。

「ユーリが元気でいてくれれば、それでいいじゃないか」

 きっと、あたらしい長靴をはいていることが嬉しくて、みずたまりに入ってみたくなったのでしょう。だって、とても嬉しそうな笑い声を上げていましたからね。



*  *  *



 こうして…コンラートは雨が降るごとに部屋に籠もり、水盆をじいっと飽かず見つめました。殆どの場合はなんにも見えないのですが、不意に浮かぶユーリの姿をみるだけで、コンラートは暫くのあいだたとえようもないほど幸せでした。



*  *  *




 そんなある日のことでした。 

 やはり雨がしとしとと降る日の夕暮れ…水盆にユーリの姿がうつりました。

 今日も長靴を誇らしげにはいた有利が、みずたまりを覗き込んでいます。

 踏みつけた時どのくらいの水が跳ねるか確かめているのでしょうか?

 だとすれば…コンラートがユーリを見つめていられる時間もそう長くはないでしょう。

『良いんだ…良いよ、ユーリ。思いっきり踏んで良いんだ。ユーリが楽しいのが、俺だって楽しいんだから…』

 ああ…それでも、いっときでも長く彼を見つめていたい。

 そして叶うことならば、ひとことだけでも彼と言葉を交わしたい…。

『贅沢を言ってはいけない…。いつか、必ず俺達は会えるのだから…』

 お役目が終わるその日まで、恋することも、子を産むことも禁じられたウルリーケのことを思えば、コンラートは恵まれているというべきです。

『ああ…ユーリの長靴が…』

 靴底が水面に向かってきます。

 どんどん大きくなってくる靴底が、ユーリの姿を隠してしまいます。

 その面積に合わせるように、コンラートの胸は塞がれていくようでした。

 ですが…コンラートはその哀しみに囚われて何もかもが見えなくなるような男ではありませんでした。

 コンラートは…不意に気付いたのです。

 ユーリの背後から、車が横滑りしてくることに…!



「ユーリっ!!」



 鋭い叫びが、コンラートの喉から迸りました!

 その瞬間、鋭い亀裂音が響いて…水盆に罅(ひび)が入ったのでした。



「ユー…リ……」

 呆然としてコンラートは水盆を見つめましたが、もう…そこには何も映ってはいませんでした。

 

*  *  *




「ウェラー卿!こ、困ります…っ!お取り次ぎなしに眞王廟に来られるなど…っ!」

 眞王廟を護る護衛兵が何人も集まって槍を掲げます。

 基本的に男子禁制のこの地には、言賜巫女や眞王の許しなしに脚を踏み入れることは出来ない…普段はその原則に従って門を厳守する守護巫女達でしたが…この日は、常の様子でないコンラートの姿に何処か怯えを含んだ物腰を見せました。

「通してくれ…っ!」

 雨具も羽織ることなく、ずぶ濡れになったコンラートは愛馬から降りるやいなや、張りつくダークブラウンの髪を荒々しく掻き上げると、鋭い眼光で守護巫女達を睥睨しました。

「…っ!」

 怯む隙を突いて、コンラートは長い脚を眞王廟に踏み入れました。

「何事です。…ウェラー卿!?」

騒動を聞きつけたウルリーケもまた、コンラートのただならぬ様子に目を見張りました。

「ウルリーケ…ウルリーケ…っ!頼む…っ!もう一度だけ、ユーリの姿をうつせないか!?せめて…ユーリが無事かどうか教えてくれ…っ!!」

 それは、血を吐くような叫びでした。

 普段は紳士的で…飄々とした風のような男の動揺ぶりに、誰もが驚きました。

 切羽詰まった…そして、狂おしいほどの切なさを湛えた眼差しに、強固な意志と使命感を持つ筈の乙女達は胸を鷲づかみにされるようでした。

『まあ…こんなにもウェラー卿を狂乱させる人物とは、どのような方なのかしら?』

『なんて羨ましい…』

 このような男にここまで思いを寄せられるとは、どのような気分なのでしょう?

 乙女達は知らず…熱い吐息を漏らしていました。

「落ち着いて下さい、ウェラー卿。どうぞこちらへ…」

 促されて、コンラートは眞王廟の最奥…眞王の間にやってきました。

 そこで、コンラートは罅の入った水盆を差し出しました。

「申し訳ない…。折角下賜された水盆を、割ってしまいました…」

「良いのですよ、ウェラー卿…。この水盆の色は澄んでいいます。あなたは私欲のためではなく、ユーリ様のために声を発したのでしょう?」

 ウルリーケはそう言うと、大きな水桶の中にそっと水盆を沈めました。

 すると…淡い光を発して水桶が輝き始めました。

「まあ…」

「ユーリ…っ!」

 ウルリーケとコンラートは同時に声を発しましたが、その声はもう向こうには届いていないようでした。眞王陛下は、彼らが声を止めていられないだろうと踏んでいたのかも知れません。

 水面に映っていたユーリは、手にちいさなお花を持って…じぃっとみずたまりを覗き込んでいるようでした。

 そして…ふわりと水面にお花を浮かべると、にっこりと笑ってこう言ったのです。

「みずのなかのひと、ありがとうね。おれ、くるまにどんっとなるトコ、たすけてもらったね。おれい…聞こえるといいなぁ…」

 あどけなく呟きながら水面を覗き込むユーリに、コンラートはしばし声を失いました。

 何かが熱く目元に浮かんできて、とてもウルリーケの方を向くことなど…ましてや、この部屋から出て行くことなど出来そうにもなかったからです。

「しばらく、一人にしてさしあげて?」

 ウルリーケは入り口を護る巫女にそう言うと、部屋を出ました。

 正確には、《二人》にしてあげたいのですが、そのことは他の人達には秘密なのです。

 

*  *  *




 それから、コンラートは水盆を眞王陛下から下賜されることはありませんでした。

 ですが…もう、コンラート自身その事を望むことはなかったのです。

 もう、そんなにユーリのことを思わなくなったから?

 いいえ…そうではありません。

 コンラートはユーリが眞魔国で過ごすための環境を作ることに力を注ごうと思ったのです。

『いつか必ず、あなたにお会いできるから。その日まで…どうぞ健やかにお過ごし下さい…』

 あのように純真なまごころを手向けてくれたユーリのために、なしえる全てのことをしようとコンラートは心に誓ったのでした。

    

「ユーリが元気でいてくれるのが、一番良い」



 もうその言葉に無理はありません。

 だって、心からそう思っているのですからね。


おしまい



 

あとがき

 お絵かきをしていたらなんとなく意味不明な絵になってしまいましたので帳尻が合うように絵本調のお話を書いてみました。でも、やっぱり無理があることに変わりはなかったのでちょっとショック…。

 ちなみに、水盆には有利に関連したものしか映りませんので、次男は女性のスカートの中身は見ていないことを彼の名誉のために伝えておきます。 



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