「雨」 ぽっ… ぽぽぽ…っ…ぽっ… 乾いた土の上に、点々と水滴が鏤められるたびに景色が変わっていく。 先程まで気持ちよく晴れていたというのに、気まぐれな山の神は天空の様子を一変させてしまったらしい。 たちまちのうちにぬるい雨粒が有利やコンラート、そして二人の乗る馬たちにも降りかかっていく。初夏の大気は蒸し暑いくらいだったから、雨が冷たく感じられる事はなかったが、これはなかなかの雨脚だ。 「ちぇ…ついてないなぁ。久し振りの遠出の時に降らなくってもさ…」 「まあまあ。多分、一時的なものですよ。ひとまず木陰に避難しましょう?」 「うん」 唇を尖らせる有利とは異なり、いつもどおりコンラートは余裕のある大人の態度だ。 『こーゆー時、違いが出ちゃうよな』 それはコンラートの方が大人だから…なのだと信じたい。 決して、コンラートが有利ほどには二人きりで出かけることを喜んでいたわけではないなんて、あまり信じたくないところだ。 『コンラッドは、我慢強いんだ。うん』 そうなると有利が我慢弱いということになりそうだが、まあ…そこは認識せざるを得ない。 『だってだって…凄ぇ楽しみにしてたんだもん…』 《禁忌の箱》を滅ぼして世界に平和が戻ってきた。 絵本や昔話なら《みんな幸せに暮らしましたとさ。おしまい》とENDマークが打たれるところだが、そこはどっこい現実世界を生きる有利にとっては、寧ろそこからが本番だった。 すったもんだあっけれど、この国で魔王をやっていくのだと決意した以上、自分に出来ることは精一杯にやりたいから、躓いたりしながらも必死でグウェンダルの指導にも食らいつき、それなりに国政をやっている。 だけど、それはそれとして…やっぱり時には、全てのことから解放されて自由を満喫したいのだ。 《自由》…その言葉を脳裏に浮かべたとき、まず浮かんだのが《コンラッドと何かしたい》ということだった。 『コンラッドと、二人きりで、何かする』 それだけを楽しみにして、この日まで結構頑張ったつもりで居たので…最後のお楽しみにと、キャッチボールを血盟城に戻ってからと設定していたことを後悔したりする。 ここで暫く足止めをくらってからだと、戻るのは夕刻になってしまう。 そうしたら…会食に参加しなくてはならない有利はまた《魔王》に戻らなくてはならない。 『俺、我が儘だ』 自分で選んだ道なのに、ちょっと忙しいくらいで音を上げてしまうなんて…コンラートと二人きりで過ごす時間が短いと言って落ち込むなんて、我が儘もいいところだ。 『コンラッドは平気そうな顔してるのにさ…大人になるって事はさ、こうやって何でも割り切れることなんだよな、きっと』 二人は大樹の陰に隠れはしたが、激しい雨は打ち付けるような勢いで降ってくるから、すぐにシャツからは水が滴るようになってきた。肌着も何もかも濡れてくると、ぴたりと肌に張り付いて気持ちが悪い。 「う〜…いっそ脱いじゃおっかな」 「駄目ですよ。一頻り降ったら、今度は気温が急に下がってきますからね」 シャツを脱ごうとする有利を制すると、心配性な彼は自分が身につけていた軍服を脱いで被せてくれる。ある程度耐水性もあるのか、確かに雨粒は硬い布地に跳ね返される。 けれど、今度はコンラートのシャツが濡れて透き通ってしまった。 「あんた、肌着着ない派?」 「すみません、お見苦しいものを…」 「いや、そんなことないけどさ…」 逞しい身体のラインが露わになるから、ついつい目線が向いてしまう。相変わらず見惚れてしまうくらいに綺麗な体つきをしている男だ。 筋骨隆々というタイプではないのだが、彼の場合は実に機能的な筋肉の付き方をしており、触れてみると意外と柔らかい。その柔軟性が、いざというときにしなやかな動きに反映されるのだろう。 そして…辛いときに抱きしめてくれると、丁度頬に当たる胸が心地よい弾力を与えてくれるのだ。そうされるといつだって、ほ…っと自然に肩の力が抜けた。 雨で濡れているこんな時に、引っ付いたりしたら嫌がられるだろうか? でも…何となく寂しかったものだから、つつ…っとさり気なく近寄って、ぺとりと頬を寄せていく。雨に濡れた身体は、少し冷たく感じられた。すると、今度は不安になってしまう。 「コンラッド…上着、返すよ。あんたの方が身体冷えてるや」 「いいえ、俺は平熱が低いだけですよ」 「でも…折角の遠出なのに、あんたに風邪まで引かれたんじゃ寝覚めが悪いし」 「それはこちらの台詞です」 コンラートはくすくすと笑うと、絶対に受け取るつもりはないのだと知らせたいのか、上着ごとすっぽりと有利を抱き込んでしまった。 「ユーリはあったかいな…」 「子ども体温ですみませんねー」 「いえいえ…とても気持ちいい」 「ほんと?だったら暫くこうしていようか?」 「ええ、ユーリさえ良ければ」 悪いはずがない。 先程からコンラートに引っ付きたくてそわそわしていたくらいなのだ。 許しを貰ったことで調子に乗ると、にこにこしながらコンラートの腰に抱きついた。 「あんたの腰、肩幅の割りに細いよね。ズボンとか特注になったりしない?」 「軍服は元々身体に合うように作りますから大丈夫ですよ。旅装なんかの時にはベルトを巻きますしね」 「ふぅん…」 「ユーリこそ、どこもかしこも華奢で可愛い」 「それ、喧嘩売ってる?」 「いいえ、褒め言葉です」 「ちっとも褒めてねぇよ!」 ぷぅ…っと頬を膨らませて怒るけれど、屈託のない笑みを浮かべているコンラートを見ていれば怒りなど持続出来ない。 ダダダ…… ザザザザァ…… まだまだ勢いよく降り続く雨が梢の合間を縫って降り注ぎ、コンラートを濡らした雫が有利へと伝わってくる。 びしょ濡れなのにどうしてか、離れていたさっきまでに比べると格段に幸せな気持ちが溢れている。 嬉しい。 楽しい…。 他愛のないお喋りをしながら、コンラートと微笑み交わしているだけで、びしょ濡れでもこんなに楽しい。 「えへへ…雨が降って凹んでたけど、なんかここまで降ると逆に気持ちいいよね」 にこにこしながらそう言うと、コンラートも輝くような笑顔でこう言った。 「ええ…あなたと共にあるひとときであれば、俺は雨の日も雪の日も、暑い日も寒い日もそれぞれの楽しさを感じますよ」 その表情と声があんまり幸せそうだったから…有利の方が照れてしまった。 「あんたってば…相変わらずサクっと誑しだよな…」 「おや、誑し込まれて下さるんですか?」 「むみゅうぅぅ〜……」 ああ、やっぱり何もかも一枚も二枚も上手だ。 「ケーケンに乏しい青少年を転がすなよ。そうやっていつもからかってさ…」 「そんなつもりは無いんですけどねぇ…」 少しだけ唇の端を掠めた苦みが、予想外に…本当に苦そうだったから、有利は慌てて訂正した。 「ゴメン…なんか、その…今のは照れ隠しだよ?あんたがあんまり嬉しいこと言うから…」 気まずい思いで口にしたのに、どうしてだかコンラートは瞳を見開いて…次いで、とろけるみたいに幸せそうな顔で、笑った。 「あなたこそ…どれだけ俺を悦ばせるおつもりですか?」 「喜んだの?え?今のどこにヨロツボがあったのか分かんないけど、あんたが幸せな気持ちでいてくれるんなら、多少恥ずかしくってもあんたの煌めき台詞許容するよ。うん」 「嬉しいな…」 ぽっ… ぽっぽ…っ… 雨足は降り始めたのと同じくらい唐突に緩むと、これまた気まぐれな空には雲間が覗き、真夏を思わせる太陽がぎらりと差し込んでくる。そうすると、久方ぶりの雨に潤う森の木々は、鮮やかな緑碧をなして輝いた。 眩しい風景に目を細めつつ、ふぅ…とコンラートが息をつく。 「さあ…そろそろ、血盟城に戻りましょうか。グウェンやヴォルフが心配しているかも知れない」 「うん…」 そっと肩を掴んで離されると、寂しさの波濤に呑み込まれそうになってしまう。つい先程までがあんまり幸せだったから、濡れたシャツ越しに感じられた素肌が遠ざかることに、えらく心細さを感じてしまった。 「コンラッド…あのさ、また…遠出しようね?」 「ええ」 「二人でだよ?」 「ええ」 「約束だよ?」 「ええ…」 一つ一つの確認に丁寧に答えながらも、コンラートは有利をアオの背中に載せてしまう。 そつのない動きが余計に寂しさを増強させたけど、これ以上駄々を捏ねるのは流石に恥ずかしくて素直に従った。 見上げた先でぎらりと光る太陽が、恨めしいほどに眩しかった。 「ユーリ、俺とも約束して下さいませんか?」 「なに?」 ノーカンティーに跨ってから上体を伸ばしてきたコンラートが、そっと耳打ちしてきた声に、有利は頬を真っ赤に染めて気分を浮上させた。 微かな寂しさなど、ぱふんと吹っ飛ばすだけの威力を、その一言は持っていたのだ。 じゃく… じゃくじゃく… ぬかるんだ土を蹄が散らしていくのを眺めながら、有利は暫くのあいだ黙り込んでいた。 けど、それは決して気まずいようなものではなく、幸せな実感に包まれた沈黙であった。 コンラートに囁かれた言葉。 『俺にとって、あなたと二人きりで過ごす時間は何物にも代え難い、大切なひとときなんですよ』 『だから…どうか、この先もずっとずっと…俺と共に在って下さい』 まるで、《プロポーズみたい》なんて思うのはとっても図々しい勘違いだろうか? 『でも、イイや…この際、信じちゃえ…っ!』 ふくふくとした幸せがあんまり身体一杯に広がるから、有利は甘やかなその言葉を全面的に受け入れることにした。 だって、そうやって信じてあげることが、コンラートにとっての幸せでもあるんだからね? おしまい あとがき 雨濡れコンユ…なのに、あんまり色気はありませんな…っ! ぬれぬれコンユ(←そこはかとなく響きがオカシイ)は妄想の中では鮮やかに輝くのですが、いざ描こうとすると「水滴がぽつぽつ滴ってる」程度にしか描けなくて切ないです。 誰か上手な方が描かれたのを楽しみたいです。 |