「甘い男」 埼玉県在住の渋谷有利くんにとって、お隣に住むコンラート・ウェラーは《コンラッド》です。 彼が引っ越して来た最初の日、まだ舌ったらずだった五歳の有利がそう呼んだのを大層気に入ったそうで、今更変えることも無いと本人が言うからです。 それに、お隣に出入りする人の中には彼をウェラーキョー・コンラートと呼ぶ人もいるのですから、それぞれ好きに呼ぶのが良いのでしょう。 コンラッドの庭には夏になると沢山の向日葵が植えられます。 昔、図鑑を見ている時に有利が好きな花だと言ったからだそうです。有利はその時のことをあまりよく覚えてはいませんが、風に揺れる向日葵が好きなのは確かです。 でももっと好きなのは、向日葵の中にいるコンラッドです。日差しを浴びたコンラッドの髪はいつもより明るい色で、丁度向日葵によく似ています。 もしかすると、コンラッドに似ているから向日葵のことも好きになったのかもしれないと言ったら、彼は照れたように笑っていました。そうすると琥珀色の瞳の中に銀の光が煌めいて、ますますイイ感じに見えました。 そう。何かにつけてコンラッドはイイ感じの男なのです。 すらりとした長身に逞しい実戦用の筋肉、端正な顔立ちが形良い頭部に収まっているというパッケージの良さに加えて、気が利いて勇敢という中身まで備えているのです。少々親父ギャグが過ぎるのだって、相手に警戒心を解かせるための《俺はちょっと抜けたところもあるんですよ》アピールなのではないかと勘繰ってしまいます。 ちょっと大きくなってきた有利にとっては同じ男として色々思うところがないわけではありませんが、その都度コンラッドと目を合わせているうちにニマッと笑い合ってしまい、《思うところ》が何だったのかさえ忘れてしまうのです。そう。彼はとんでもない人たらしなのです。 更に言えばコンラッドは律儀な男です。 ですから、毎年向日葵を植え続けます。 作付面積も年々な増加の一途をたどり、今では広い庭全域を埋め尽くすほどです。 有利が中学生になって反抗期を迎え、今までみたいに甘えることがなくなっても、喧嘩(ほぼ一方的に有利が拗ねただけ)の時期も一途に向日葵を植え続け、《見においで》と誘ってくれます。 鮮やかな黄色い花とコンラッドの笑顔を見ていたらすっかり毒気が抜けてしまって、反抗するのも馬鹿馬鹿しくなってしまうことをすっかり見抜かれています。 優しいコンラッドはいつだって、叱ることはあっても怒ることはありません。前者の場合でさえ困ったように眉の端を下げ、《ダメだよ》なんて、無駄に良い声で囁きかけてくるものですから、有利にとってはたいそう分が悪いのです。 蜂蜜みたいな愛情でとろとろと有利を煮溶かすコンラッド。 色々とツッコミどころは多いですが、やっぱり大好きです。 一番のツッコミどころはやはり、何故そこまで有利に肩入れするのかってことですけどね。 『幾つまで手放しで可愛がってくれんのかね』 有利はまだ微妙に反抗期を引きずってはいますが、それを子どもっぽいと自覚できるくらいには大人になりました。 何しろ高校生になりましたからね。今日は誕生日を迎え、16歳になるくらいですし。 そうすると、そろそろ無償の愛なんてものがどこにでも転がっているような代物ではないことに気付きます。 無垢な子どもの愛らしさなんてものは賞味期限が短いブツですから、今までと同じ調子でコンラッドに甘え続けていれば、早晩見限られる可能性も高いと踏んでいます。 有利としても、子猫に向けるような愛情をいつまでも注いでくれなんて思っていませんので、年齢に見合った愛着を維持してもらうべく先方の需要も見極めたいのです。 そういえば、コンラッドは一体幾つになったのでしょうか。 いつも曖昧に濁されるので正確な年齢は分かりませんが、滑らかな肌の質感は出会った頃とちっとも変りません。何の前情報も無く彼を見た人は、大抵大学生か、社会人になったばかりだろうと推察します。実際、そうとしか思えないナリをしていますので無理もありませんね。 彼が実は有利の名付け親なのだと言うと、昔からみんな《えー》と驚いたものです。最近では驚きを通り越して怪訝な顔をされるようになったので、あまり他の人がいるところでは言わないようにしています。 不思議と言えば、何の仕事をしているのかも謎です。 父とは仕事上の付き合いだと聞きましたが、どこかに通勤している様子はありませんから、テレワークとかそういうアレでしょうか。そのわりに裸体は見惚れるくらいの筋肉美で、古傷もたくさんあるのが本当に謎です。 あ。別に覗きを働いたわけではありませんよ。 風呂やプールで合法的に見ただけです。 体中傷だらけなのは、ジャングルで野生動物と闘ってきたからであって、その筋の人というわけではないそうです。鋭い刃物で切り付けられたような跡がある気がしますが、サーベルタイガーみたいな獣相手だったのでしょうか。 そういえば、有利が中学生になってきた頃から緒にお風呂に入ろうと言うと微妙な顔をするようになったのは何故でしょう。 冗談めかして《事案になるからね》と言っていたのが、時々真顔になるのがちょっと面白くて、わざと誘うことがあります。 コンラッドは少々嫌がっても、有利が軽く涙目になってねだると大抵のことは聞いてくれるのです。 そう。彼は有利限定でチョロいのです。 とはいえ、兄が言うには有利だってコンラッドには随分と甘いのだそうです。 兄が勧める服を着るとか謎のラブきゅんポーズなんて絶対しないのですけど、コンラッドが頼めばひょいひょいやるからです。 けれど、それは当然のことではないでしょうか。 だって兄とコンラッドは別の生き物です。 よく家族や知人はコンラッドの事を《ゆーちゅんにとってお兄ちゃんみたいなものなのよね》と評しますが、明確に違います。 コンラッドはこの世界でただ一人のコンラッドです。 絶滅危惧種なのです。 有利の中のレッドリストに登録されているのです。 彼の絶滅を防ぐためなら、何だって聞いてあげたくなるではありませんか。 それに、兄と違ってコンラッドは女装とか女装とか女装みたいなあざとい願い事なんてしません。ただちょっと有利と仲良しであることを再認識してみたくて、ちょっとしたお揃いを愉しむ程度です。 今年くれた同じ柄のアロハシャツと短パン、ビーサンもその一つです。 兄は《なんであいつとゆーちゃんのペアルックなんだっ!》と激怒していましたが完全にスルーしています。普段はきっちり着込んでいるコンラッドの短パン姿は新鮮で、寧ろ有利にとっての御褒美と言っても良いくらいなのですから。 流石にこの格好で海やプールに行くのは照れくさいですが、一緒に向日葵や芝生に水撒きする分には楽しいばかりです。 そのまま渋谷家でささやかなお誕生日会をした後、コンラッドの家にお邪魔することになりました。 兄はいつも通り渋い顔をしていましたが、父が妙に押しの強い笑顔で勧めてきたのです。勿論、有利にも断る理由なんてありません。 あまりにも楽しかったせいでしょうか。いつもなら9時には眠たくなる健康優良児の有利ですが、今日は日付が変わる直前まで起きてはしゃいでいました。やっとうとうとしてきても眠りは浅く、静かにベッドから出て行くコンラッドに気付いたほどです。きっとトイレでしょう。 戻ってきたらちょっと脅かしてやろうかなと構えていましたが、コンラッドはいつまで経っても帰ってきません。急に寝室の静寂が気になってそわそわしていた有利は、ふと屋外に人の気配を感じました。 2階にある寝室の窓から庭を覗くと、広がる向日葵畑が少し欠けた月に照らされています。ゆさ、ゆさと揺れる大ぶりな花と葉の間に、同じくらいの背丈の男が立っていました。 コンラッドです。 『こんな真夜中にどうしたんだろ』 薄暗いせいもあって、コンラッドの表情から気持ちを汲み取ることは難しいです。 彼には珍しい虚無顔をしているような気がするのですが、本当にそうでしょうか。 コンラッドはどれくらい静止していたのでしょう。ふと時計を見ると、もうじき日付がかわろうという時刻です。もう5分を切ったところでしょうか。 ふ、とコンラッドが息をつき、ゆったりとした足取りで動き出しました。 部屋に戻ってきてくれるのかと思いましたが、何故か真反対に進んでいきます。 カチ、カチ。 静寂の中、時計の針が動きます。 やけに響くその音に、有利は唐突な焦燥感を覚えました。 このままコンラッドを行かせてはいけない。本能的にそう感じた有利がとった方法は、最大限にコンラッドの愛情を信じ切ったものでした。 「コンラッド…っ!」 「…っ!」 普段は何があっても微笑んで落ち着き払っているコンラッドの顔が、驚愕と焦りに強張ったのが分かりました。有利が勢いよく2階の窓から飛び出したからでしょう。有利自身も股間がヒュンっと縮み上がるような感覚を覚えましたが、コンラッドはもっと強くそういったものを感じたようで、身体全体を使って抱き留められた後のハグは背骨がへし折れそうなほど苛烈な圧でした。 「なんてことを…っ!」 「いやァ。流石コンラッド。包容力半端ない」 「呑気に笑わないで、ユーリ」 真顔で覗き込まれて、正直飛び降りた時より股間がヒュンっとなりました。 美形の真顔は怖いって本当だったのですね。 「いや。それはそうとこんな夜中に何してたんだよ。眠れなくて散歩って顔でも無かったし」 「眠れなくて散歩してたんだよ」 「被せ気味にきたなオイ。それは無いって言ってんだろ」 有利にできる精一杯強い力でハグを返しながら、コンラッドの懐を何とか抉ろうと試みます。彼は有利の事を何でも知っていると思っているようですが、同じだけ有利だって彼のことを知っているのです。 全然教えてくれないから彼の素性自体は不明なのですけど、実は一つだけ分かっていることがあるのです。 「コンラッド。おれに期待してることあるんだろ? 言えよ。叶えてやるから」 「俺の望みは君が健やかに成長することだよ」 「するよ。約束する。だから、《どこ》でおれに成長して欲しいのか教えてよ」 コンラッドの表情が微笑のまま静止します。 まだ切り込みは浅いですが、何とか懐の一部に取っ掛かりは作れたようですし、仮説は当たっていたようです。 「ショーマから聞いた?」 「ううん。違う。ただ、時々何か言いたそうな顔してんのは分かってた。誕生日の度にやたら感慨深そうにしてた中でも、今年は特に節目っぽい気配漂わせてたからさ。あと、コンラッドがおれを見る目が時々潤んでた」 「……えぇえ」 意外とクリティカルヒットだったみたいです。 表情こそ変わりませんが、月明かりにもはっきりと分かるくらいコンラッドの耳朶か朱くなっています。 「それはなかなかに恥ずかしいですね」 「ポーカーフェイスによっぽど自信あったみたいだけど、こう見えておれは十年以上あんたの観察続けてんだからな」 へへんと自慢げに笑ってコンラッドの肩口にすり付きます。 「深淵を覗き込む時、深淵もまたこちらを覗いてるってホントだったんだね」 「人を深淵扱いすんな」 「これは失礼」 少しいつもの調子を取り戻してふわりと笑う男の瞳を、じっと覗き込みます。 「ああ。これは、覗き込まれていますね」 「おれから言わせれば、あんたの方がよっぽど深淵だぜ。何でもかんでも内緒にしやがって。あんた何でも器用なくせして、自分の望みを自分から言うのだけは…つか、望むこと自体苦手なんだから」 呆れたように呟けば、観念したらしいコンラッドが両手を上げて降伏の意を示しました。 「なァ。まだギリギリおれの誕生日だろ? 可愛い名付け子の願いを叶えてよ。おれが《どこ》であんたの望む成長を遂げれば良いのか、教えて」 「おれが君に甘いと知っての所業だね?」 こくりと頷き、有利は胸を張って言いました。 「そうさ。こうなったら、徹底的に甘やかしてよ」 ついに観念したコンラッドの口から飛び出したのは、想像の斜め35度くらいからの《望み》でした。 眞魔国という魔族の国で王様をして欲しいのだそうです。 つい、一通りの説明を聞いた有利の第一声が《へー》でも仕方ないでしょう。正直、言い出した相手がコンラッドでなければ担がれているのだと断じたところです。 ですが何しろ相手はコンラッドなのです。 訳が分からなくたって、信じないわけにはいきません。 * * * 「今更ですけど陛下。よくまァあんな説明で魔王になろうなんて思いましたよね」 あれから20年が経ちました。 眞魔国で前魔王の兄弟達とすったもんだあったり、純血魔族と混血魔族と人間の垣根やら他国との外交やら《禁忌の箱》やら何やらを運と勢いで乗り越えた最初の数年を思えば、わりとちゃんと将来設計なんかしながら魔王様をやっている気がします。 そうそう。垣根を乗り越えたといえば、コンラッドとも主従と性別と年齢差を乗り越えて夫婦関係になりましたので、今のコンラッドは魔王婿です。 押せ押せでそういう関係に踏み切らせたのは有利です。 寝台の上ではアレコレされちゃう方ですけども、こちとら男前度とか思い切りの良さはずっと上なんですよ。 「しょうがないだろ。信じなきゃ、あんたどうせ《全部冗談ですよ》って笑って、おれの前から姿くらましたろ」 少しでも注意を緩めると有利の幸せのためにとか何とか理由をつけて幸せから遠ざかろうとする男を繋ぎ留めておくため、有利は能力も権力も常にフル稼働しておく必要があります。 「わあ。見抜かれ過ぎて怖い」 「やっぱりかよ」 やはり有利の観察眼、いえ、コンラッド眼は冴え渡っていたのです。 ちなみに、コンラッドは眞魔国にやって来てからも似たような心情から敵国に潜伏しようとしたことがあるのですが、やはり有利は読みきって未然に防いだことがあるのです。 「あとさ。今更突っ込むのも面倒くさいけど一応言っとくと、陛下って呼ぶなよ名付け親。 二人きりの時間に敬語使うのも禁止だろうがよ」 「はいはい」 「サラッと流すのも禁止」 「はい」 今思い出しても怖いことに、あの夜、ほんの少しコンラッドに飛びつくのが遅かったら、本当に彼は姿をくらませるつもりだったのだそうです。 父の希望で幼少期は普通の人間として暮らし、16歳になったら眞魔国に行くことになっていた訳ですが、コンラッドは傍で見守るうちに疑問を抱くようになったのだそうです。 有利は魔族と混血の溝を埋めることのできる魔王の器だとは信じているけれど、何の下地もできていないあの世界に突然放り込んで良いのだろうか。 先にコンラッドが戻って眞魔国に下地を作っておくべきなのではないか。 そんな風に考えたコンラッドが選ぼうとしていたのは、実にろくでもないものでした。 何と自分が人間世界の大国シマロンで出世し、眞魔国内の魔族、混血、シマロン以外の人間の国家にとって共通の《倒すべき敵》になることで意識統一を図らせようとしていたのだそうです。 そういう地盤のもとでコンラッドが有利に討たれれば、世界は肯定的に魔王を受け入れるだろうと。 そうなれば最終的な目標である《禁忌の箱》への対処も少しスムーズになるだろうと。 いや、《泣いた赤鬼》かよ。 計画を聞いた有利の突っ込みに、コンラッドはきょとんとしていましたっけ。 詳細な設定を聞けば、あながち実現不可能というわけでもない遣り口だったのが余計にたちが悪いです。 「すいません。ユーリ。ね、機嫌を直して?」 「もー」 羽毛みたいに優しく触れるキスを幾つも頬や額、頭の天辺に落としながら、コンラッドは腰に響く良い声で今日も魔王陛下を陥落していきます。 「あんたとはおちおち喧嘩もできやしない」 「良い事じゃないですか」 「そーだなァ」 最後に一回だけぷくっと頬を膨らませた後は、コンラッドの首にしがみついてもう少し大人のキスをします。 それで喧嘩はもうおしまいです。 最初から喧嘩じゃなかったですって? そうかも知れません。 だって、二人とも相手に甘い男同士ですからね。 おしまい あとがき 今年も読んでくださってありがとうございます。 コンラッドが名付け後も地球に居座っていたというていのお話です。 来年もよろしくです。 |