『夏の既視感』 「ふェ?」 夏休みに入って数日が過ぎた頃、じっとりとまとわりつくような暑さに耐え続けるか、思い切って冷房をつけるかどうかの狭間で揺れ動いていた渋谷有利くん(17歳)は、不意に気の抜けたような声を出した。 傍に自称《大親友》のメガネくんがいた日には、さぞかしウィットの利いた表現で揶揄ってくれたことだろう。時々諧謔が効き過ぎて、有利には貶されているのかどうか自体が分からないこともあるが。 発声の誘因となったのは、自分の学習机の引き出しに入っていた一枚のメモだった。 随分とお疲れ気味の用紙だが、元々は結構高級な紙だったのではないかと思わせる、独特の質感を持っている。 何というか、古文書みたいな雰囲気がある。 端が手作業で切った感じで、羊皮紙とかそんな感じ。 その用紙は水分やら何やらを吸ってから乾燥したらしく、部分的に色づき、波打っている。それほど年季の入った代物なら普通、《あ、懐かしいな》といった郷愁を誘われそうなものだろう。 だが、奇妙なほどに見覚えが無い。 もしかして開いてみれば何か思い出すかも知れないと思って、ごわついた用紙を矯めつ眇めつ眺めてみたものの、謎は余計に深まるばかりであった。近寄せて嗅いでみれば、微かに泥臭い匂いがする。用紙にへばりつくスジも水草の線維と思しきものだから、やはり池か沼に水没したことがあるらしい。 「えー。何だよ、この文字」 内容に見覚えが無いというレベルの話ではなかった。 書かれている文字が読めない。 一定の規則性を持って横書きに綴られた筆記体が、何らかの文章を書き綴ったものであろうことは察せられるものの、取りあえず英語ではないと思う。幾ら平凡〜悲惨を行き来する英語の成績でしか無いとはいえ、それ以外の言語との見分けくらいはつく。 それに、その文字列を何度も目で辿るうち、余計にもやもやとしたものが胸と頭蓋腔内を満たした。 「見覚えが…ある?」 このノートのこと自体を、何か思い出したというわけではない。 だが、万年筆か何か洒落た筆記用具で書いたと思しきインクの滲み具合が、酷く有利の記憶を揺さぶるのだ。 「何で」 この筆跡を、有利は知っている。 「あー…。何だよ」 知っている。 染み入るほどに知っている。 目の奥が痛みを覚えるほどに熱くなり、喉が酷く引き攣れるくらいに。 揺さぶられる。 今、有利は、思い出したくて堪らない。 「なん、で」 銀色の煌めきを湛えた優しい瞳。 これは一体、誰のものなのか。 そわりと首筋から腰に向って響くような甘い声は、かつて有利に囁きかけられたものなのか。恐ろしく良い声過ぎて、他意が無いと分かっていても胸が熱くなった、気がする。 「ナニ言ってんのか、分かんないよコンラッド」 誰だ。 コンラッドとは。 ひェ。 「まさかこれは…おれの、黒歴史?」 ゾクッと背筋が別の意味で震えた。 そう。ほんの数年前まで有利はリアル中坊だったのである。 社会生活に支障をきたすほどではないにしても、やはりちょっとくらいは自分に特別なとこがあるのではないかなんて夢見たものだ。 主に、野球の才能に関してであった気はするが。 ちょっと有利の嗜好からは外れているような気もするが、異世界転生的なファンタジック妄想をした挙句、あまりの恥ずかしさに記憶を抹消したのだろうか。 「え。じゃあ今込み上げて来てんのって、羞恥心なわけ?」 いやいやいや。 流石に違うだろう。 違っていてくれ。 お願い。 「せめて思い浮かべるのは美少女にしてくれよっ!」 先程から視覚的、聴覚的なフラッシュバックを齎している要素からは、胡散臭い位のイケメン臭がする。 異世界ハーレム妄想を年上男性相手に繰り広げていたなんて、黒歴史にしたって色々超越し過ぎている。寧ろ、兄の関与を疑うレベルだ。 うむ。 兄の事を想定要素に入れると一気に胡散臭さが増す。 常日頃、有利を小ばかにしているわりには珍妙なテンションのブラコンぶりが隠しきれていない兄のことだ。サブマリン何とかを利用したアレとかソレとかで、自分にとって都合の良い催眠を仕掛けていないとは言い切れない。(尚、サブマリン何とかは後日、サブリミナル効果が正解であると知ることになる) 大方自分の姿を刷り込むつもりが、誤って異世界イケメン像を投影してしまったのだろう。 「うゥ…くっそ〜。あのバカ兄貴っ!」 よれよれの泥臭いノートを床に叩きつけようとして、すんでのところで手が止まる。 「何だよ。これ」 震える手は依然としてノートを握りしめたままで、目からはボロボロと大粒の涙が零れ落ちていく。 分からない。 分からないのに、何故、どうして。 こんなにも狂おしいほどに懐かしく、慕わしいのか。 「コンラッド…っ! 何で、おれから、離れてんだよ…っ!」 うっわ。 怖。 ぐしゃぐしゃに泣き崩れた挙句、口から勝手に言葉が出てくる。 「あんたは、おれの」 何だっけ。 あの人は、コンラッドは、おれの。 かけがえのない…。 「っ!」 脳内で何かがスパークした途端、用紙に綴られた文字が読めた。 気がする。 勝手な妄想でなければ、その文字が意味する文章は…。 意味を汲み取ったと感じた途端に、辺り一帯を満たしたのは渦巻く水流だった。 そのまま床や壁の存在を無視して、深い沼の底に勢いよく巻き込まれていく。 本来なら恐怖を感じるだろうその情景に、何故か有利の胸は躍った。 どれほどの時間が流れたろうか。 不意に大量の水と共に放り出された有利の身体は、カーキ色の軍服に包まれたイケメンに抱き留められた。 「うわァ」 フラッシュバックされていた姿が目の前で結像する様子に、有利は阿呆の様にあんぐりと口を開けた。あまり綺麗とは言い難い水が咥内に滴り込んでくるが致し方ない。 情けなくも溢れ続ける涙を止める手立てもなく、同じような顔をして…いや、泣き崩れてもイケメンはイケメンである旨を知らしめながら泣き笑いの表情を浮かべる男に、ぐったりとしながらも抱き着いて行く。 「くっそ…。マジで最悪だ」 「そうですか? オレにとっては、最良ですけど。一つの事象も、主観によって随分捉え方が違うものですね」 すらすらと脳内に入って来る言葉が理解できる。 多分これは、ノートに書かれていたのと同じ言語なのだろうけれど、有利の中ではまだその辺は断片的だ。 「言っとくけど。あんたに会えたこと自体はすっげェ嬉しいから」 「それはありがたいお知らせですね」 この上なく光栄、という顔でイケメンが笑う。 爽やかなのに何故か一癖も二癖もありそうな男は意味深な笑みを浮かべるけれど、微かな皮肉を浮かべていること自体が、めんどくさい照れ隠しなのだと知っている。 そうだ。 有利は知っている。 彼が自分にとって何者だったのかを。 「何もかも忘れて、あなたは可愛い…いえ、きっと…あなたの好みに合うならおそらくはとてもカッコイイ女性と結ばれて、平和で幸せな日々を過ごされるのだと思っていました。オレは、万が一それが侵害されそうな時には何をおいても闘うと誓っていました」 「言葉だけ聞くと凄い忠臣っぽい」 「はは。やだなァ。掛け値なしの忠義ですよ」 「ただの臣下はさ、そういう《万が一》があることを期待しちゃダメだろ?」 彼もまた知っている。 有利のこういった、稚拙ながら皮肉を含んだ言い回しが、唯の照れ隠しであることを。 有利もまた、何としても彼に会いたいという衝動を無意識下であっても抱き続けていたことを。 「おっしゃる通りです。すいません。陛下」 「いや。謝る気ないよね? このタイミングでお約束のソレ言っちゃうの?」 「やはりルーチンはこなしておいた方が良いかと思いまして」 「いや。確かに懐かしいっちゃ懐かしいんだけどさ。ついでに時々それ、イラっとしたなァなんて、余計なことまで思い出したよおれは」 「そういうところがホラ。主観の違いなんでしょうねェ」 この上なく嬉しそうに笑わないでくれ。 ちょっと面倒くさいこんなやり取りでまで、涙腺を刺激するのはやめてくれ。 「陛下じゃないだろ。名付け親っ!」 「ええ。すいません。ユーリ」 キラキラと彼の人の瞳が煌めくのを眺めながら、やっと有利は彼の本名を思い出す。 ウェラー卿コンラート。 有利の名付け親にして、唯一無二の臣下。 いや…この際、自分に正直になるべきだろう。 「…もうちょっとで、あんたが恋人だったなんてことも完全に忘れそうになったし、何なら、思い出し掛けた時点で黒歴史認定して、自分から封印しそうになったよ」 「そうして下さった方が、あなたにとっては幸せだったかもしれませんよ? こんな面倒くさいおれと、救うだけ救わせておいて、元の世界にポイっと捨て去った《異世界》で、あなたまた魔王業をやることになるんですから」 「えー。そこは退位になってないのかよっ!」 「あなたの臣下達はみんな、諦めが悪いものでね」 言われてやっと、コンラッド以外の風景や人物が視界に入って来た。 移動に多く用いられてきた眞王廟の庭園で噴水の中に半身を沈めたままの有利目がけて、眦を釣り上げた連中がバッファローみたいな土煙をあげて突進してきている。 歓迎よりつるし上げを喰らいそうな気がするのは気のせいだろうか。 汁気の多い人物はともかくとして、基本、コンラッドの兄弟はデカい方も小さい方もツンデレのツン味が強すぎて、時々身が持たないのだ。 「おい。あんた。兄弟愛も結構だけど、今だけは恋人として身体張ってくれよっ!」 「仰せのままに。ユーリ」 ああ、チクショウ。 懐かしさと愛おしさでまた胸が震える。 手だってパーキンソン病もかくやというような静止時振戦をきたしている。 「ツラと声が…イイっ!」 「恐悦至極、です」 ふふ。とこれまたイイ声で笑ったコンラッドは、華麗にお米様抱っこしたおれを抱えて逃走を図った。 晴れ渡る夏空に、怒声と奇声が響き渡った。 『責任とってくれよ、コンラッド』 平和な世界を捨ててでも、傍にいたいと思われてくれやがった厄介な恋人。 彼が綴った言葉が、有利を再び魔王にしたのだから。 《愛しています。ユーリ》 闘いに赴く直前、魔王服に忍ばせた一枚の羊皮紙。 その罪深さを、一生かかって償ってくれ。 おしまい |